教区の歴史

教区の歴史

ペトロ岩橋淳一神父納骨式・ミサ説教

2014年12月13日

府中墓地にて

[聖書朗読箇所]

説教

ペトロ岩橋淳一神父様は10月24日、小金井の桜町病院で急性肺炎のためになくなられました。

神父様は2010年12月27日の夜、当時主任司祭をしておられた上野教会の司祭館の階段で転倒し、脊髄損傷の重傷を負い、そのときから3年10ヶ月、辛い日々を過ごしてこられました。

しかし、持ち前の明るさを保って苦しみを主なるイエスにおささげになり、司祭として立派に生涯を全うされました。

本日は慎んで神父様のご遺骨は府中墓地に埋葬し、神父様の永久の安息のためにお祈りいたしたいと思います。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14・6)

まもなく今年も暮れようとしております。2015年を迎えながら、わたしたちは道、真理、命であるイエスと共に、父なる神のもとへと一緒に歩む旅を続けます。

待降節は主イエスの降誕を迎える準備をするときですが、同時にキリストの再臨を思う時でもあります。再臨のときにはすべての被造物の完成のとき、すべての被造物が滅びへの隷属から解放されるとき(ローマ8・21)であります。その解放のときの到来への信仰と希望を持ってご一緒に歩んでまいりましょう。

明日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。入祭唱は今日のミサの趣旨をよく示しています。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)です。

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5・16)といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

荒れ野に泉が湧いているように、この世界には永遠のいのちに至る泉が湧いています。夜の空に星が見えるように、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。イエス・キリストは荒れ野の泉、闇の中に輝く光であります。  

岩橋神父様の生涯は実にこの信仰と希望の証であったと思います。悲しみのうちにも信仰と希望を新たにしていただけるよう祈りましょう。