教区の歴史

教区の歴史

奉献生活者年開始ミサ説教

2014年11月22日

麹町教会にて

主催者
 日本カトリック管区長協議会
 日本女子総長管区長会

[聖書朗読箇所]

説教

第二ヴァチカン公会議の『修道生活の刷新・適応に関する教令』(Perfectae caritatis)公布50周年を記念して、教皇庁奉献・使徒的生活会省(長官、ジョアン・ブラス・ジ・アビス枢機卿と次官のホセ・ロドリゲス・カルバッロ大司教)は、2014年1月31日(金)に、2015年を奉献生活の年とする、と発表しました。( 「奉献生活の年」は2014年11月30日(待降節第一主日)より2016年2月2日、主の奉献の祝日まで、となっています。)

教皇フランシスコは、主の奉献の祝日の2月2日(日)正午の「お告げの祈り」の際、およそ次のように述べました。

「奉献生活者は生活のさまざまな分野における神のしるしであり、より公正で兄弟愛に満ちた社会のためのパン種であり、小さい人々、貧しい人々と分かち合うことについての預言です。すべての奉献生活者は、旅する神の民へのたまものです。奉献生活者の存在はきわめて必要とされています。

彼らは、福音宣教、キリスト教的教育、貧しい人々への愛のわざ、観想的な祈りへの献身を、若者と家族の人間教育と霊的教育への献身を、人類家族における正義と平和のための献身を、強め、刷新します。

病院、宣教地、学校にシスターがいなくなればどうなるか、すこし考えてみてください。

シスターたちは神の民を前進させてくれるたまものであり、パン種です。自分の生活を神にささげ、イエスのメッセージを伝える、偉大な女性たちです。」
 
主イエスは今日の福音で言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15・12)

教会はこのイエスの言葉を大切にこの言葉の実行に務めてきました。

わたしは本日、教会における愛に実行の努力の歴史の一端を振り返ってみたいと思います。

今日、「ホスピス(hospice)」という言葉が社会に定着しています。これはラテン語の「ホスピチウム(hospitium)」に由来し、元来、病者、貧者、孤児、老人、旅人らの避難所、救護所の施設を意味していました。

この救護所を担当していた信者は現在の奉献生活者にあたる人々であったと考えます。また、今日の「病院(hospital)」という言葉や「ホテル(hotel)」という言葉もこの「ホスピチウム(hospitium)」に由来すると考えられます。

現在では「ホスピス」といえば、末期患者に対する全人的な苦痛を緩和し、人生の最後の時を充実した時とするための支援の施設の呼び名であり、さらに自宅での在宅ホスピスをも含む活動全体を意味しています。(『岩波キリスト教辞典』の「ホスピス」という項目より)

主キリストの愛の教えの実践に励んだ人々が存在したことは明白です。この人々は病院、学校、施設などを通して愛の証しを行った人々であり、その人々の団体が現在の修道会として発展してきたのではないでしょうか。

わたくしは、現代における教会の召命は、教会が現代の荒れ野におけるオアシスとなり泉となる、ということだと思います。実際既にそうなっておりますが、ますますそうでなければならないと考えます。言い換えれば、教会は現在の救護所「ホスピチウム(hospitium)」でなければならないと思います。 多くの人が病み悩み苦しみ迷い、闇の中に置かれています。自死者の数はやっと年間三万人を割りましたが、なお多くの人が生きる意欲をそがれている現実があります。

心に傷を持つ人々、心の問題を抱える人々のために教会が現代の「ホスピチウム(hospitium)」の働きを担いたいと念願しています。

先日、10月にヴァチカンで開かれた臨時シノドスに参加しました。シノドスでは世界中の家庭の問題が取り上げられています。

残念に思うのは、結婚・離婚に関する話が多く、移住者や高齢者の問題、心に傷を負う人々の問題は、あまり取り上げられなかったということです。

東京教区としては、日本に移住してこられた多くの方々の直面している問題、また少子高齢化社会の問題、そして心に傷を負う人々の問題が重要です。皆さんはそのことをよくご存知です。

移住者、高齢者、精神障害者の為に、教会がよりよい「hosptium(救護所)」となるよう、奉献生活者の皆さんの働きに大いに期待したいと思います。

キリスト者はキリストの愛の実行へと招かれているとともに、日々の祈りの生活へと招かれています。それは、神の声を聞き、キリストの招きに応える生活の日々です。

特別な環境の中で、誓願を守り日々祈りに励む人々の存在は、この世にあって神の国の到来の優れたしるしとなっています。

日本はキリスト教徒の数が少ない国ですが,幸いなことに、祈りに専念する「観想修道者」の存在は一般の社会の人々にも少し知られており、日本の教会のなかに、「観想修道院」が根を下ろしていると言えます。観想修道院の存在と祈りの日々は、著しく世俗化したこの社会の中で、この世を越えた永遠の世界の存在、復活のキリストの存在を指し示しているのです。

ところで観想修道院の修道者だけでなく、すべての奉献生活者は祈りの人であるはずです。奉献生活者は、祈りを通して世俗の中を生きる信徒、司祭(司教)を支え励まさなければなりません。奉献生活者と言っても世俗の只中におりますので、祈りを妨げる事情には事欠きません。

従いまして、養成計画のなかに、多忙な使徒職活動の中で、いかに祈りを確保するのか、という重要な課題への取り組みをしっかりと組み込んでいただきたいのです。

現代は祈りが難しい時代のように言われています。奉献生活者の皆さんには、祈りの生活の模範を示していただきたい、そして人々を祈りへと誘うようにしていただきたいと考えています。

東京カテドラルは今年の12月8日、無原罪の聖母の祭日に献堂50周年を迎えます。献堂50周年記念行事のお知らせを皆さんに送りました。

そのプログラムのなかに、「カテドラルでの教会の祈りの晩の祈りの開始」、ということが入っています。カテドラルが「祈りの家である」ということをより明らかにしめすために、せめて、主日・祭日には、神の民が一緒に教会の祈りをささげなければならないと考えました。奉献生活者の皆さん、是非参加して、祈りを主導し推進していただきたい。司教としてお願い致します。

そして、その際、司教・司祭がその務めをよく果たすことができますよう、祈ってください。また病気、障がい、種々の問題のために苦しんでいる人々の癒し、解放の為に祈ってください。

わたしたち神の民のネットワークが、現代の荒れ野のオアシス、救護所として人々の癒しと慰めとなりますように、また祈る神の家の姿をよりよく示すことができますように、聖母マリアと聖ヨセフの取り次ぎを願いながら祈りましょう。アーメン。