教区の歴史

教区の歴史

ケルン教区訪問に際してのミサ説教

2014年09月21日

2014年9月21日 年間第25主日
聖アポステルン教会(ケルン教区)にて

以下は、9月19日にケルン教区のカテドラルで行われたヴェルキ枢機卿のケルン大司教着座式に参加した機会に、9月21日、年間第25主日、ケルン教区聖アポステルン教会にて、日本人共同体のためにささげられた主日のミサの説教である。このミサにはケルン教区聖アポステルン教会聖歌隊のメンバー、他のドイツ人の信徒も参加した。説教は日本語で行われ、その要旨を在ケルンの吉田慎吾氏が、その場で、ドイツ語に通訳した。

第一朗読 イザヤ55・6-9
第二朗読 フィリピ1・20c-24,27a
福音朗読 マタイ20・1-16

説教

本日は12使徒にささげられ聖アポステルン教会にて主日のミサをお献げできますことは、わたくしの大きな喜びとするところであります。ケルン教区聖アポステルンの主任神父様、この教会の皆さんのご厚意に感謝申し上げます。

今日の第一朗読はイザヤ書で次のように言われています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、
わたしの道はあなたたちの道と異なる。」(イザヤ55・8)

このことばどういう意味でしょうか。神の思いと人間の思いとはどう違うのでしょうか。

今日は天の国をたとえるぶどう園の労働者の話から、わたしたちは、この意味を学ぶことができると思います。この話がまさに、神の思いが人間の思いとはどう違うのか、ということを語っていると思います。

夜明け前から働きだした人は日の暮れるまで働き、やっとその日の終わりに1デナリオンの賃金をもらいます。ところが夕方5時ころ雇われた人も同じ1デナリオンをもらいました。しかも「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を」払わせました。こんな不公平な話はありません。働いた時間あるいは働いた仕事量に応じて、そして働き始めた順番に応じて支払うのが常識の考え方であります。このぶどう園の労働者の待遇はこの社会ではありえない話です。しかし、この話は「天の国」のたとえ話です。

ではイエスは何を教えているのでしょうか。

まずこの「不公平」ということを考えてみたいと思います。賃金の不公平を言う前のもっと根本的な段階で、人生自体の基本的な不公平がありはしないでしょうか。すなわち  「人生の不公平」と言うことをわたしは指摘したいと思います。イエスはこの問題へわたしたちの目を向けさせたいのではないかと思います。

そもそもわたしたちの人生自体が不公平ではないかと思います。人の能力や体力には大きな違いがあります。恵まれた人もいますが、能力において劣り、また病気や障がいに苦しむ人もいます。出生と言うことだけ取り上げてみればわかりますが、恵まれた環境に生まれた人もいれば劣悪な環境の中で生を受ける人もいます。そもそも人は生まれながらに、すでに不公平な条件を背負っているのです。これは人生の不条理です。人生には、自分で努力すれば獲得できる部分もありますが、努力では何ともしがたい部分もあります。人生の多くの部分は与えられたものであり、自分で選び取ったものではありません。

5時ころ雇われた人は、働きたくとも仕事が見つからなかった人です。仕事がないのはつらいことです。そして仕事がないのは必ずしも本人の責任であるわけではありません。ぶどう園の主人は仕事のない人たちに同情し、5時からであっても仕事をつくり、一日分の報酬を支払いました。これはむしろ人生の不公平を是正するための措置ではないかと思います。午後5時の人に自分を置けば、ぶどう園の主人のこのやり方は非常に有難いと感じます。これが神様のなさり方であります。これは天の国のたとえなのです。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる。」(イザヤ55・8)

神様の思いとは何であるのか。人の尺度では測りきれない思いです。神様は仕事にあぶれた人に声をかけ、病気の人、障がいを持つ人、家庭に恵まれなかった人、教育の機会を与えられなかった人、社会の中で排斥された人、差別された人に、声をかけます。

神の目は、病気に苦しむもの、不条理に苦しむもの、弱い立場におかれたものに注がれるのです。

イエスは病気に苦しむ人、障がいで苦しむ人を自分のぶどう園に招き、彼らを癒し、助け、励まします。イエスの弟子たちであるわたしたち教会は午後5時の人にどのような態度をとっているでしょうか。このイエスの愛をどのように実行しているでしょう。午後5時の人をえこひいきするほどに主の愛を実行しているでしょうか。

どんな人でも招かれ受け入れられ、喜んで働ける主のぶどう園をつくるためにわたしたちは派遣されています。

このぶどう園の労働者の話に出てくる労働者のなかで、自分は何時に働き始めた人にあたるでしょうか。自分を、午後5時の立場の人においてみることのできる人は幸いであると思います。