教区の歴史

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イエスの聖心の祭日のミサ説教―全国カトリック校、校長・教頭合同研修会中のミサ

2014年06月27日

2014年6月27日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

今日はイエスのみ心の祭日です。イエスのみ心は神の愛、イエスにおいて現われた神の愛を現しています。イエスはまことの人間として、人間の心を持って人を愛しました。イエスのみ心は、イエスの人間としての愛を示しています。

1675年、フランスのマリア訪問会の修道女マルグリッド・マリー・アラコックにイエスが出現し、ご自分の心臓を示しながら、人々の忘恩を嘆いていわれました。「聖体の秘跡において受けたすべての辱めを償うために、聖体の祭日の次の金曜日に祝日を設け、償いのために聖体拝領をしてほしい。」(新カトリック大事典、「イエスのみ心」参照)

イエスのみ心への信心は聖人たちの働きによって多くの人々へ広がり、「聖心」の名を用いた修道会や信心会が多数創立されたのでした。

今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、使徒ヨハネは繰り返し「神は愛である」と語っています。キリスト教が人々へ伝えたい命題は結局「神は愛である」という短い信仰告白にまとめられます。聖書はすべて神の愛を語ります。

今日の第一朗読、申命記でモーセは言っています。

「(神は)ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。」(申命記7・9-10)

ここで示されている神の愛はいわば父としての神の愛、人間の歩むべき道を示し、道に外れたものを罰する父の厳しい態度を示しています。

人生には守るべき定め(ルール)があります。教育とは人の守るべき道を教え定めに従って歩ませることです。

しかし人はなかなか定めを守ることができません。人間には抜きがたい悪への傾きがあります。また誰でも弱さと惨めさを抱えています。

聖書の神は、同時に、この弱く脆く間違いを犯す人間を赦し受け入れる神です。この神の愛は、いわば傷つき迷うわが子を受け入れ癒す母の愛であると、言えましょう。

旧約聖書から新約聖書の流れの中で次第に、神の愛は同時に「赦す愛」であることが明らかにされます。「赦す愛」はイエス・キリストの十字架において最高潮に達しました。槍で貫かれたイエスのみ心は人々の罪を担い、罪を赦す神の愛を示しています。

イエスは言われました。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

イエスの愛はわたしたちを招く愛です。イエスは「わたしのもとに来なさい」といい、さらに「わたしの軛(くびき)を、負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29) 

実はわたくしには、このイエスの言葉は、聖マルグリッド・マリー・アラコックに告げられたイエスの嘆きの言葉を想起させるのです。

イエスの愛は罪人を受け入れ包む愛、いわば母の愛ですが、イエスの与える軛(くびき)を負うことを、そしてイエスに学ぶことを求める愛です。

キリスト教の教えを一言で言えば、「神は愛」ですが、神の愛は人の歩む道である戒めを教え導く愛であり、また同時に弱さと過ちの中で迷い苦しむ人間を包み癒し救う、母のような愛でもあります。

人間は厳しい父の愛と、優しい母の愛の双方を必要としております。カトリックの学校で、そのような愛、父性と母性の調和した神の愛が伝えられるように願い、そのために祈ります。