教区の歴史

教区の歴史

吉祥寺教会堅信式説教

2014年06月15日

2014年6月15日 吉祥寺教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

報道によれば、聖地エルサレムを訪問した教皇フランシスコは、6月8日、聖霊降臨の主日の午後、ヴァチカンにおいて、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長を迎え、「平和を願い求める祈りの集い」を行いました。集会にはコンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世も出席されました。 

わたしたち日本のカトリック教会も、この平和のための祈りの集いに心を合わせ、各教会で、世界の平和のため、特に中東の平和の早期実現のために祈りをささげたと思います。

聖地エルサレムは、キリスト教徒だけでなくユダヤ教徒とイスラム教徒にとっても聖地であります。そのためでしょうか、エルサレムはこの三つの宗教の争奪の場所なり、そのため多くの血が流されました。

旧約聖書の時代からすでにイスラエルとパレスチナはユダヤ人とパレスチナ人との絶えざる抗争、紛争、対立の地となっています。

そしてさらに7世紀にはイスラム教が起こり、現在中東はイスラム教徒の住民が多数を占める地域となっています。

同じ唯一の神を信じるユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の間で紛争が絶えないのはまことに残念なことです。神は自分の子どもたちが争い傷付けあい殺しあうことを決して望まれません。神の名によって戦闘が行われるとしたら、それは神のみ心を誤解して行っているのだとわたしは考えます。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はともに一神教と呼ばれます。一神教は他の宗教を排斥する不寛容な宗教ではないかという考え方があります。しかしそれは正しい神のみ心の理解ではありません。また、歴史上、そのような誤った考え方があったのは事実であり、残念なことです。

ヨハネ・パウロ教皇は紀元2000年の大聖年を迎えるにあたり、教会が反省すべき重大な事項のなかに「キリスト者の不寛容」があると指摘しています。

教皇は、「真理への奉仕に際しての不寛容、さらに暴力の行使を黙認してきたこと」があったと述べ、「真理は、やさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせない」(教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『紀元2000年の到来』35項参照)と言っています。

この表現で具体的に何を意味しているのか、と考えてみれば、この表現の中にはいわゆる異端審問やユダヤ人迫害、十字軍などの出来事が含まれているのではないかとわたくしは考えます。*

神はすべての人の救いを望んでいます。今日の福音で次のように言われています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

福音の中心、真髄というべき箇所です。

確かに神はすべての人の救いを望んでいます。そのために御子をお与えになりました。御子を信じる者は永遠に命を与えられます。

ところで、それでは「イエスを信じない者は救われないのでしょうか」という問題が起こります。イエスを知らないで生涯を終わった人は救われないのでしょうか。

このジレンマに第二ヴァチカン公会議は次のように答えています。

「実際、キリストはすべての人々のために死に渡されました。また神はすべての人が救われるように取り計らわれます。そこで神は、神だけが知っている方法によって、聖霊の働きにより、キリストの復活の恵みに与らせる可能性をすべての人に与えられると信じなければならない。」**

キリストはキリスト教徒でない人のためにも十字架の上で命をささげました。それはすべての人が救われ、すべての人が父である神において一つに結ばれるためでした。

宗教の違いが対立や抗争の理由になってはならないのです。

これから堅信の秘跡を受けられる皆さんに聖霊の賜物が授けられます。皆さんは是非、聖霊の恵みに導かれ助けられて、宗教の違いを超えて平和が実現するように働いてください。今日は特にそのために心を合わせて祈りましょう。

 

*拙著『現代の荒れ野で』(オリエンス宗教研究所)でこの問題を取り上げて論じていますので参照ください。
**『現代世界憲章』22項の趣旨。なおこの問題についても拙著『現代の荒れ野で』で取り上げていますので参照ください。