教区の歴史

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聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ説教

2014年04月17日

2014年4月17日 東京カテドラル関口教会にて

聖書朗読箇所 

第一朗読 出エジプト記12・1-8,11-14
第二朗読 一コリント11・23-26
福音朗読 ヨハネ13・1-15

説教 

わたしたちは今晩、いわば最初のミサである「主の晩餐の夕べのミサ」をささげ、最後の晩餐の記念を行います。

主イエスは過ぎ越しの食事を行いながら、ご聖体の秘跡をお定めになりました。わたしたち司祭は主イエス・キリストのことばに従ってミサをささげるたびに、パンとぶどう酒の上に手を差し伸べて按手の祈りをささげ、聖別のことばを唱えます。

すなわち司祭は、「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのためにわたされるわたしの体である。」「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい契約の血である。これをわたしの記念としておこないなさい」といいます。

按手と聖別の祈りによってパンとぶどう酒はキリストの体と血であるご聖体となります。このことを教会は固く信じてきました。この信仰が問題とされたこともありますが、カトリック教会はこの教えを守ってきました。これは不思議なことです。

ご聖体といっても物理的・化学的に変化が起こっているわけではありません。それでもわたしたちはそこに復活されたキリストが真におられると信じています。どうしてこのように信じることができたのでしょうか。

それは、イエスが自分の言葉どおりに生きたから、だと思います。

イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12)と教え、また弟子たちの足を洗い「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13・14)と教え、自分を苦しめ、ののしる者たちに自分の体をひきわたされました。また十字架にかかられ、血を流していのちをささげられたのです。イエスは自分のことば通りに生き、自分のことばを実行しました。

だから人々はイエスのことばを信じ、ご聖体であると信じることができたのだと思うのです。

もしイエスの受難という出来事がなければ、最後の晩餐のときの、このことば、つまり聖体制定のことばは単なることばの綾であり、晩餐はただのパフォーマンスに過ぎないことになってしまったことでしょう。

イエスがわたしたちの罪のために実際に十字架にかかってくださったという事実が、聖体の秘跡を信じさせるための根拠になったのだ、と思います。

実際、イエスは復活されました。いまや復活したイエスはミサ聖祭のときにご聖体に現存されます。復活の世界、物理的世界を超えた神の世界をわたしたちに示してくださるのです。復活を信じるなら、聖体にイエスがおられることを信じることは決して難しくはありません。

皆さん、出来るだけしばしばご聖体訪問をしてイエスにご挨拶するよう勧めます。