教区の歴史

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聖香油のミサ説教

2014年04月17日

2014年4月17日 東京カテドラルにて

説教

イエスはナザレの会堂で預言者イザヤの書を手にされました。そこには次のように書かれていました。

  「主の霊がわたしの上におられる。

   貧しい人に福音を告げ知らせるために、

   主がわたしに油を注がれたからである。

   主がわたしを遣わされたのは、

   捕らわれている人に解放を、

   目の見えない人に視力の回復を告げ、

   圧迫されている人を自由にし、

   主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4・18-19)

イエスは主の霊である聖霊を受け、霊に導かれてその使命を遂行しました。イエスは聖霊の導きに従い、神の国の福音を宣(の)べ伝え、病人を癒し、悪霊を追放し、十字架の死と復活によって罪に打ち克ち、父のもとにのぼり、弟子たちの上にご自身の霊である聖霊を注ぎ、教会を設立しました。いまイエスは教会を通してご自分の使命を継続し発展させておられます。

わたしたち司祭の使命は主イエスから受けた使命、主イエスから託された任務です。

わたしたち司教・司祭は弱い人間でありながら、神の力である聖霊の助け・導きをうけ、キリストの使命に与り、いわば「神の仕事を行う者」となりました。それが可能であるのはひとえに聖霊の働きを受けているからです。

したがって、司祭は自分の存在と任務はすべて神の霊の働きによることを深く悟り、人々の前に、自分の存在とすべての働きを通して神の栄光が現れるよう努めなければなりません。

神は、主を畏れ、主に祈り、主に信頼する者、信仰深い、そして謙遜な人を通してその力を現されます。司祭はそのような意味での「神の人」であることが期待されています。

司祭は自分の務めを実行するに際して試練に出会い、また誘惑を受けることが少なくはありませんが、主イエスに倣い、試練に打ち克ち、誘惑を退け、互いに赦しあい、励ましあい、互いに祈るようしなければなりません。 

今日は教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』より、日々困難を感じているわたしの心にもっとも強く響く箇所を紹介したいと思います。

「福音の喜びは、何によっても、また誰によっても、奪われることはありません(ヨハネ16・22参照)。世間の悪や教会内の悪に直面しても、献身と熱意を失うための口実にするべきではありません。それらを成長するきっかけだとみなすことにしましょう。・・・自分の弱さの自覚に痛めつけられても、あきらめることなく、パウロに主がいったことばを思い起こしたいものです。『わたしの恵みはあなたに十分である』(二コリ12・9)。キリスト者の勝利にはいつも十字架が伴います。しかし十字架は同時に勝利の御旗です。悪の攻撃に対して闘う力のあるいつくしみをもって、わたしたちはその御旗を高くかざすのです。敗北を恐れるという悪霊は、実る前に毒麦をよい麦から選りわけてしまうように誘います。焦っている自己中心的な不信がわたしたちをその誘惑に陥らせます。」(84.85)

わたしたちは困難な状況で、失望し、絶望し、投げやりになり、不毛な悲観主義に陥るという誘惑にさらされます。あせらず、希望を持って、主に信頼して、この試練のときを越えていきたいと願っています。

主よ、信仰のないわたしを助けてください。アーメン。