港・品川宣教協力体合同堅信式ミサ説教

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2013年10月6日 高輪教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

港・品川宣教協力体の皆さん。

きょうは合同堅信式の日です。きょうの福音朗読と他の聖書朗読からわたくしがいただいた思いを、皆さんに、とくに堅信を受ける方々にお話します。

四苦八苦といいますが、人生には多くの苦しみが伴います。その苦しみのなかで人は精一杯の努力をしてけなげに生きています。そして、この自分の苦労、努力を誰かに評価して欲しい、という気持ちを誰しも持っているのではないかと思います。

人は独りでは生きていけません。他の方とのつながりのなかで生きています。他者との人間関係の基本は感謝、お詫び、お願い、ということだと思います。ところでわたしたちはこの人間関係において、自分が期待する感謝、謝罪、信頼が得られないとき、不快を覚え怒りさえ感じます。

怒りは「期待と現実の不一致」から生じる感情である、といわれています。

今日の福音は「取るに足りない僕(しもべ)」の話です。この話には少々受け入れにくい面がないでしょうか。

イエスは言います。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17・10)

主人は「有難う」の一言くらい言ってもいいのではないでしょうか。

実は、主人とは神様のことであり、僕とはわたしたち人間のことではないか、と思います。この話は神様と人間の関係を言っています。

わたしたちは神様に一生懸命仕えています。ですから神様から「よくやった」と言ってもらってもいいのではないか、という気持ちがしています。しかし現実の人生では報われることが少ないです。人生は不条理で、不公平です。これは、おかしいではないか、何故こんな目に会わなければならないのか、と神様に文句を言いたくなります。

ところがイエスは「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(ルカ6・35)と教えました。

わたしたちの心には、「神様からの当然の報い」という考えがあり、この世ではそれがない、足りないと思って、不満や怒りを覚えるのです。

人生において神様からの報いがないと思っても「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言えるためには深い信仰が必要です。人生の不条理を感じても、神様への信頼を保つためには深い信仰がなければなりません。

第一朗読のハバククの預言では、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか」(ハバクク1・2)と預言者は神に文句をつけています。

それに対して神は答えました。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2・3)

それとはなんでしょうか。神への訴えが聞き届けられるときのことでしょうか。

さらに次のように言っています。「神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2・4) 

この箇所を使徒パウロはローマの信徒への手紙のなかで引用して言います。

「わたしは信仰を恥とはしない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しいものは信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

使徒パウロは獄中から愛する弟子のテモテに手紙を送り励まします。テモテを叙階※1したのはパウロでした。「わたしが手を置いたことによってあなたにあたえられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。」(2テモテ1・6)

「信仰年」の期間中に堅信を受けられる皆さん、わたしが手を置き、また油を塗って、祈りとともに伝える聖霊の賜物を大切にし、生涯をささげて、信仰のあかしをしてください。主があなたがたの信仰を増し、強め、深め、確かにしてくださいますように、アーメン。

 

※1:この箇所は後に叙階の秘跡と呼ばれる、司教・司祭の任命の場面と考えられる。