教区の歴史

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浅草教会説教(年間第17主日)

2013年07月28日

2013年7月28日 浅草教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

きょうのルカの福音11章には「主の祈り」が出てきます。

「主の祈り」は昔から、福音の要約と言われております。「主の祈り」はマタイの福音の6章にも出ています。わたしたちがミサの中で唱える「主の祈り」はマタイからとられた祈りです。

「信仰年」にあたりきょうは「主の祈り」の意味を深めながら、わたしたちの信仰を深めるよう、祈りたいと思います。

主の祈りは前半と後半に分けられます。

前半においてはまず神のみ心が行われることを願います。その後で自分たちの必要をお願いします。この順番が大切です。

祈りは神を通して自分の願望を実現させることではありません。この地上において神のみ心が行われることを願い、そのために自分をささげることです。わたしたちを通して神のみ心が行われるよう願い、そのために祈るのです。

わたしたちが神のみ心、神のみ旨を行うためには神のみ旨を知らなければなりません。そのためには、神のみ旨を示してくださるよう、祈らなければならないと思います。そしてさらに神の旨を知ったらそれを行うことが出来るよう、神の導きと神の恵みをお願いしなければなりません。

わたしたちは罪深くまた自己中心なので、神のみ心を実行するには力が足りません。そのためには、聖霊の助けを願わなければならないのです。

主の祈りの後半で、ルカの福音は

「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(ルカ11・4)

と祈っています。わたしたちは皆罪人であり、神に対して、隣人に対して、大きな借りをもっているのです。

マタイの福音では、

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6・12)

となっています。

「わたしたちも・・・赦しましたように」といっている点に注目しましょう。神に赦しを願う場合、わたしたちは人が自分に対してもっている負い目を既に帳消しにしていなければならない、とマタイは言っているようです。

これは肝に銘じるべき教えであります。自分はそうしているでしょうか。そうできるでしょうか。

人を赦すとは、その人の行った悪に、いわば、目をつぶる、ということではありません。ではどうすることが人の罪を赦すことになるのでしょうか。

イエスは十字架の上で祈りました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)

パウロは言っています。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。・・・を誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ12・14,17,21)

人を赦すとは人間には難しいことです。神の恵みなしにはできません。赦すとは単に人を責めない、ということではなく、その人の上に神の祝福を祈り、その人が心から悔い改めて、神の愛によって生かされるようになることを願い、そのために祈り、そのために自分にできることをする、ということではないか、と思います。

何よりまず自分自身が赦されるべき者であり、キリストの十字架によって罪の贖いを受けている、ということを深く心に刻みましょう。

アブラハムはソドムとゴモラの罪の赦しを神にとりなしました。いまわたしたちには主イエス・キリストを罪の赦しをとりなす仲介者として与えられています。また聖母マリアをはじめ、多くの聖人、殉教者に、主キリストへのとりなしをねがうこともできます。

心から人を赦すことが出来るよう、そのとりなしを聖母マリアにお願いいたしましょう。