喜多見教会最終ミサ説教

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2013年7月21日 年間第16主日 喜多見教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

喜多見教会の皆さん、きょうはこの聖堂でミサがささげられる最後の日です。

おりしも、きょうの福音は有名なマルタとマリアの姉妹の話です。これは、イエスと弟子たちの一行がエルサレムへ向かう途中での出来事と考えられています。

ヨハネの福音によれば、マルタとマリアの住んでいたのはエレサレムに程近い、エルサレムの東方にあったベタニアという所でした。ベタニアはイエスが何回か訪ねて憩いのひと時をもたれた場所です。イエスはエルサレムでの受難を前にして、ベタニアで暫しの静かな安らぎのときを望まれたのでした。

マルタはマリアの姉、イエスがよみがえらせたラザロの姉でした。非常に活動的な人で、イエスをもてなすために忙しく動き回り働いていました。妹のマリアのほうは静かな女性でした。彼女はひたすらイエスの足元に座ってイエスの話に聞き入っていました。

その妹の態度がマリアには納得できません。マリアはイエスを通してマリアを働かせようとしました。

そのマルタにイエスは言われました。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・42)

このイエスの言葉を深く味わいたいと思います。イエスは受難を前にしています。マリアはそのことを感じとり、この大切なとき、時間を惜しむかのように、マリアはただ只管(ひたすら)イエスの言葉に聞き入っていたのでした。それはイエスにとっても必要で大切なひと時でありました。

ヨハネの福音12章では、イエスが過越祭の六日前にベタニアに行った時の出来事を伝えています。

そのときマリアは純粋で高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭い、家は香油の香りでいっぱいになった、とあります。(ヨハネ12・1-4)

また、マタイの福音もマルコの福音も、それぞれ、イエスがベタニアで女性から香油を注がれた、という出来事を記しています。(マタイ26・6-13、マルコ14・3-9)

この、女性によるイエスへの香油の塗油、という出来事が人々にとって非常に印象的であったことがうかがわれます。

イエスは言われました。

「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中でどこでも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語られるだろう。」(マタイ26・12-13)

まさにこのイエスの予言が今世界中で実現しています。

福音書は、イエスがベタニアの家でマリアに語った言葉は記しておりませんが、そのときのイエスの言葉はマリアの心に深く刻まれたのに違いありません。

他方、イエスの男の弟子たちのほうは、マリアと対照的な状態にありました。

受難に向かうイエスの心が理解できず、それどころか、自分たちの中で誰が一番偉いのか、ということが彼らの第一の関心事でした。

しかしベタニアのマリアは受難に向かうイエスの心を受けとめ、イエスの葬りの準備をしたと考えられます。

「信仰年」にあたってもっとも大切なことは、イエス・キリストをもっとよく知る、ということだと思います。そのためには、何より神のみ言葉、主のみ言葉に耳を傾け、心で受けとめなければなりません。

きょうの第二朗読でパウロは、次のように言っています。

「わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たします。」(コロサイ1・24)

イエスの十字架はすべての人の罪を贖うために不足していた、ということはありません。

しかし、イエスはわたしたちに、自分の十字架をとって自分に従うよう求めています。それはイエスの十字架の贖いにわたしたちキリストの体である教会が参加するためではないか、と思います。

 

わたしたちは今いろいろな問題、困難に直面しています。日本のカトリック教会、東京教区、そして喜多見教会には自分たちの担うべき十字架があります。

イエスの十字架の意味をより深く悟らせてくださるよう、祈りましょう。わたしたちが、主の過ぎ越しの神秘に、喜びと希望のうちに与ることが出来ますように。アーメン。