教区の歴史

教区の歴史

年間第3主日ミサ説教-主のはしため、エリザベット・マリア北原怜子さん記念

2013年01月27日

2013年1月27日 潮見教会にて

 

第一朗読 ネヘミヤ記8・2-4a,5-6,8-10

第二朗読 一コリント12・12-30

福音朗読 ルカ1・1-4,4・14-21

 

(福音本文)

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

[さて、]イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

  「主の霊がわたしの上におられる。

  貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。

  主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、

  目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、

  主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスは聖霊に満たされて帰り、荒れ野に赴いて悪霊の誘惑を退け、霊の力に満ちて、ガリラヤにお帰りになりました。

安息日にお育ちになったナザレの会堂に入り、イザヤの預言の巻物をお開きになり、次の箇所が目に留まりました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは、イザヤ預言者が述べている主の霊を受ける人とはまさに自分のことであるとし、イザヤの預言の成就を宣言しました。

「キリスト」とは油注がれた人という意味であり、油注がれるとは聖霊の恵みを受ける、と言う意味であります。イエス・キリストとは聖霊に満たされた人、霊の力に満ちた人でありました。

わたしたちも洗礼を受けてキリスト者となりました。わたしたちの教会は聖霊降臨によって誕生したのですが、実に教会とは、神の霊=聖霊を受けた神の民であります。わたしたちは、洗礼により神の霊を受け、また堅信の秘跡によって聖霊の賜物を受けた神の民であります。

今日の第二朗読、コリントの教会への手紙によれば、教会は、キリストの体、ともいわれます。パウロによれば、わたしたち教会は同じ神の霊を受けたキリストの体です。人間の体にはいろいろな部分があるように、キリストの体にもいろいろな役割があります。

人間の体には多くの部分があり、どの部分も大切な役割を果たしています。必要のない部分はありません。体の各部分は互いに相手を必要としていますし、助け合い、互い配慮しあっています。一つの部分が苦しめば他の部分も苦しむ、とパウロは言っています。人間の体はそのようにできている、とわたしたちは実感します。

ところでわたしたち教会はキリストの体です。教会の中に、人間の体のような有機的一致があるでしょうか?教会の中にはいろいろな人がいますし、いろいろな働きがあります。同じ聖霊の働きを受けています。とはいえ、対立や矛盾、分裂から完全に免れているわけではないのです。わたしたちはそのことを日々痛いように体験しています。わたしたちはいつも不一致に悩んでいます。同じ聖霊を受けているのにどうしてそうなるのでしょうか?

思いますに、それは、わたしたと聖霊の一致が不十分だからです。一致とはわたしたちの間に相違がなくなることではありません。わたしたちは互いに異なる存在です。互いに異なる、その相違点を互いに尊重し補い合ってはじめて一致が実現します。

聖人とは聖なる人、つまり聖霊の勧めによくしたがって生きた人です。よく祈り、神の言葉によく学び、イエス・キリストの生涯によく倣って生きた人が聖人です。

今日の第一朗読で次の言葉が心に強く響きました。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8・10)

わたしたちの人生には困ったこと、悲しいこと、いやなことがあります。今日はご一緒にミサをささげて、神様の力、聖霊の力をいただき、喜びのうちに感謝をおささげいたしましょう。

きょうわたくしが潮見教会を訪問したのは、皆さんと「主のはしため、エリザベット・マリア北原怜子の取次ぎを求める祈り」を一緒に祈り、すこしでも北原さんに倣って生きることができるよう、聖霊の導き、聖霊の助けをご一緒に願い求めるためであります。

北原さんは蟻の町に住み、人々と一緒に生活し、ご自身、廃品回収の仕事を行いました。厳しい生活のなかで病気のため、29歳の誕生日を迎える前に主に召されました。1958年1月23日のことでした。

5年前にこの潮見教会で北原怜子さん帰天50周年の記念行事が行われ、わたくしが招かれてミサをささげました。その時に生前の北原怜子さんと一緒に生活したことのある外側志津子さんという方の講演がありました。

北原さんは狭い粗末な小屋に住み、病床にあっていつも窓から外を通る人に微笑みを送って励まし慰めていたと聞きました。 

今の社会の状況は50年前とすっかり変わってきています。50年の間に日本は経済的には大いに発展しましたが大切なものをなくしています。孤立し孤独に苦しむ人が増えました。

いまわたしたちに必要なのは、聖霊の促しに従う生活、すなわちこの世の精神から解放され離脱した生活、質素、清貧、貞潔、自己放棄、そして賢明で忍耐強い証しの生活ではないでしょうか?

教皇様の意向に従いいまわたしたちは、第二ヴァチカン公会議開始50周年を記念して『信仰年』を過ごしています。『信仰年』は信仰を深める年です。

北原怜子さんの生涯に倣うことは立派な信仰の養成になると思います。そこで今日ご一緒に、「主のはしため、エリザベット・マリア北原怜子の取次ぎを求める祈り」を唱えたいと思います。

 

主よ、あなたは 主のはしため エリザベト・マリア北原怜子に多くのめぐみをお与えになりました。

とりわけ東京で戦争の犠牲になり、顧みられなかった貧しい人々に喜びをもって自らを与え、輝く証しのうちに信仰生活をおくる力をあたえてくださいました。

また 汚れなきみ母マリアのご保護の下に小さな人々の育成と援助に愛をもって生涯を捧げる恵みをもお与えくださいました。

わたしたちは彼女を通して示されたあなたの業に感謝致します。

主よ、エリザベット・マリア北原怜子の取り次ぎによって、あなたに真心をもって祈るわたしたちに、言葉と行いの一致のうちに信仰を証ししてゆく力を与え、あなたを求めるすべての人に信仰の光を与えてください。また、いま信頼をもって祈るわたしの願いを聞き入れてください。

わたしたちの主イエス・キリストによって、アーメン。