教区の歴史

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アレルヤ会クリスマス会ミサ説教

2012年12月22日

2012年12月22日 待降節第4主日 麹町教会マリア聖堂にて

 

第一朗読 ミカ5・1-4a

第二朗読 ヘブライ10・5-10

福音朗読 ルカ1・39-45

 

(福音本文)

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

今日は、「お告げの祈り」についてお話したいと思います。

お告げの祈りの祈願は次のようになっています。

 「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して、復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

これは待降節第4主日の集会祈願とほぼ同じ祈りです。(訳文の違いはありますが原文は同じです。集会祈願というのは、ミサの入祭の時に司式司祭が、会衆を代表して唱える公式祈願のことです。)

「恵み豊かな父よ、わたしたちの心にいつくしみを注いでください。みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、御子の苦しみと死を通して復活の栄光にあずかることができますように。」

かつて文語でお告げの祈りを唱えておりました時に、唱えていた祈願の文章は以下の通りです。

「主よ、われら天使の告げを以(もっ)て、御子キリストの御託身を知りたれば、願わくはその御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによって願い奉る。」

 

このお告げの祈りというのは、Angelus Domini 「主のみ使い」という言葉で始まります。マリア様が天使ガブリエルから、聖霊によって救い主の母となるというお告げを受ける時のことを思い起こして、アヴェ・マリアの祈りを三回唱え、祈ります。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」(この「なりますように」はラテン語で「フィアト」といいます。)と答えて、神の言葉を受け入れました。わたしたちも神様のみことばに従って生きることができますように、マリア様の信仰に倣うことができますように、と願いながらお告げの祈りを唱えます。

マリアは聖霊によって身ごもるということをどうして信じることができたのでしょうか。マリアが信じたとしても、それをどうやってほかの人に説明、納得させることができるでしょうか。そんなことはあり得ないと思われるでしょう。彼女はヨセフという人と婚約していました。ヨセフにどうやって説明することができましょう。信じてもらえなければどうなるかというと、石殺しの死刑になります。「はい」と答えることは、命をかけての「はい」であります。そういうことが背景にあるのです。

三回アヴェ・マリアの祈りを唱え、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができますようにと祈ります。

イエス・キリストは、人から罵られ、辱めを受けて、侮られ、十字架につけられて、天の父から見捨てられたような思いをして、十字架の上で息を引き取られました。そのそばに聖母マリアはたたずんでおられました。そのナザレのイエスを天の父は復活させました。

イエスの受難、十字架、そして復活ということがキリスト教の信仰の中心であります。わたしたちもイエスのあとを歩むことによって、同じように復活の栄光にあずからせてくださいますようにと祈るのです。大変素晴らしい祈りです。これを毎日朝、昼、晩、それも誰かと一緒に祈ることができれば大変素晴らしいことであります。このお告げの祈りの時に、唱えるのがアヴェ・マリアの祈りですね。

Sancta Maria サンクタ マリアというのは、聖マリアです。Mater Dei マーテル デイというのは、神の母。神の母というのは、ギリシャ語でテオトコス。今読んだルカの福音書の「わたしの主のお母さまが、わたしのところに来てくださるというのは、どういうわけでしょう」とありますが、この「わたしの主のお母さま」の、「わたしの主」というと、それはマリアの胎内の御子イエスを指しています。エリサベトはマリアの胎内の御子を「主」と呼んでいるわけです。主というのは、聖書では神を指しています。主なる神を意味しています。イスラエルの神、神様のことを呼ぶ時には、みだりに神の名を呼んではならないと命じられているので神を「主」と言い換えていました。日本語の「主」、ヘブライ語の「アドナイ」、ギリシャ語に訳されて「キュリオス」です。「主の母」といえば「神の母」ということになるのです。人々はイエスのことを、「主の母」「神の母」と呼んでいましたが、迫害が終わって、キリスト教が公認された後、今度は教えをめぐる様々な論争が起こったのです。

迫害が終わりますと、イエス・キリストは誰かという論議が起こりました。325年には二ケアの公会議が開かれて、イエス・キリストは「神からの神」と決議されました。それではマリアは誰であるかというと、イエスの母、ということになります。イエスはキリストですから、「キリストの母」そして「神の母」ということになります。ところが、それは間違っていると言った人が現れました。イエス・キリストにはお母さんがいる。しかし神には母はいないではないかという議論でしょう。複雑な論争になったわけです。

イエスは、神に等しいです。ですからマリアは「神の母」であるということになります。431年エフェソの公会議、そして451年にはカルケドン公会議が開かれて「神の母」の教えは確立されました。

イエス・キリストは、人であり同時に神であります。イエスという人がいて、別にキリストがいて、入れ替わり、立ち替わり現れるわけではないのです。イエスとキリストは同じです。人間であるイエスは同時に神様である。唯一のペルソナをもち、神性と人性二つの本性をもっている。二つの本性は混合せず、変化せず分割されず、分離されることのない。これがカルケドンの公会議の結論でした。

マリアが「神の母」であるということが確立されるまでは、多くの人の議論があったということです。

お告げの祈りを唱えながら、わたしたちは、マリアは神の母であることを信じ、マリアに祈ります。マリアのとりなしによって、キリストの受難、十字架、復活の神秘に与かり、永遠の命へ導かれますようにとわたしたちは日々祈っているのです。