エルサレムのチリロ青山謙徳神父通夜の祈り説教

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2012年11月21日 東京カテドラルにて

 

福音朗読 マタイ11・25-30

 

(福音本文)

そのとき、イエスはこう言われた。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

エルサレムのチリロ 青山謙徳神父を偲びながら一言申し上げます。

青山神父様は1951年12月21日、麹町教会で司祭に叙階され、60年にわたり東京教区の司祭として奉仕され、11月19日、穏やかな最後のときを迎えられ、天の父のもとへ旅立たれました。享年90歳でした。

神父様はここ関口のカテドラル構内にあったお家で1922年にお生まれになり、1934年 12歳のときに、そのまま小神学生となり、暁星中学校へ入学され、司祭への道を歩み始めました。

神父様の司祭への養成の道は、しかしながら戦争によって中断されました。1943年に召集され、兵士として中国で従軍する日々を過ごされました。

何かの折に神父様からお聞きしたことですが、神父様は召集を受けて、お別れの挨拶をするために、シャンボン大司教様を横浜にお訪ねしたそうです。

ジャン・アレクシス・シャンボン大司教は第五代の東京大司教で、1927-37年在任されました。在任中、1932年、いやゆる「靖国神社参拝拒否事件」が起こり、その対応に大変苦慮されました。

日中戦争が拡大して行くなか、この事態を憂慮した教皇庁は、日本のカトリック教会の指導者を次第に邦人と交替させるという方針をとり、1937年、シャンボン大司教は東京大司教を辞任し、日本人の土井辰雄大司教に交代しました。

シャンボン大司教は新設の横浜司教に就任しましが、40年には辞任し、日本人の責任者に交代しました。

青山神父様がシャンボン大司教を横浜に訪ねた1943年には、すでに横浜司教も辞任していたと思います。

二人はどんな話を交わされたのでしょうか?大司教は同じ構内で生まれ育って青山神父さんのことをよく知っており、多分、自分の霊的息子として、大切にしてこられたのです。1943年といえば、神父様は21歳になる年でした。

1945年、戦争が終結し、神父様は46年に無事帰還し、神学生の生活に戻られました。

わたしが2000年に大司教に就任したときは現役から引退しておられ、司祭の家にお住みになっていました。

12年間同じ敷地でご一緒しましたが、いつもロザリオを繰りながら庭を散歩しておられました。また庭でお会いするときはいつも、手を帽子に当ててご挨拶くださり、そのたびに恐縮いたしました。

イエスは言われました。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

神父様はよく祈る方でした。たびたび十字架の神秘を黙想しておられました。

司祭叙階金祝記念文集の中で神父様は言っておられます。

 「なぜ、どうして、でも信じています。この繰り返しです。十字架の玄義と言いますか、愛の深い神様がどうして私たちに十字架をお与えになるのか。

・・・(中略)・・・、私が十字架を勇気をもって担うことができなくとも、きっとイエズスさまが捕まえていてくださると、信頼するのが現在の心境です。」*

神父様は主イエスから受けた軛をおって90年の生涯を主なる神様におささげになりました。ご自分に与えられた軛を謙遜に背負われた生涯でした。

神父様はアジア・太平洋戦争の悲劇をつぶさに体験されました。司祭として長い年月、小教区で牧者の務めを果たされ、晩年は祈りによって司祭の務めを果たしておられました。わたしたちは祈る司祭といえば青山謙徳神父様をすぐに思います。

残されたわたしたちも、自分の軛を喜んで負いながら、主イエスのことばである「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」をしみじみと味わうことができますよう、祈りたいと思います。

 

*青山謙徳『綴りかたー司祭金祝を感謝してー』所載「愛の綱」より。