教区の歴史

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インターナショナルデーミサ説教(年間第25主日)

2012年09月23日

2012年9月23日 年間第25主日 東京カテドラル関口教会にて

 

第一朗読 知恵2・12、17-20

第二朗読 ヤコブ3・16-4・3

福音朗読 マルコ9・30-37

 

(福音本文) 

〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

主イエス・キリストにおいて兄弟姉妹の皆さん、

ことしの年間第25主日、すなわち、きょう9月23日(日)は世界難民移住者の日にあたり、このカテドラルでインターナショナルデーのミサがささげられています。

きょうの福音でイエスは再び受難の予告をしています。しかし弟子たちにはそれが何のことだか、分かりませんでした。いや多分何か恐ろしいことが起こると感じたのでしょう。「怖くて尋ねられなかった」とあります。

弟子たちはそんな不安な話題よりも熱中できる話題がありました。それは「自分たちの中で誰が一番偉いのか」ということでした。イエスから「途中で何を議論し合っていたのか」と訊ねられて黙ってしまったのは、彼らも多少の後ろめたさを感じていたからでしょう。十字架の道を行くイエスの心を弟子たちは誰一人理解していませんでした。

しかし弟子たちは後ほど復活されたイエスと出会い、イエスの生涯と言葉の意味を深く知るようになったのでした。それは聖霊の導きを受けてからのことです。

10月11日より「信仰年」が始まります。信仰年の最大の課題はイエス・キリストをよりよく知る、ということです。

ヨハネの福音は告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

愛する独り子イエスが辱められ、侮られ、見捨てられ残虐な磔刑(磔の刑)にあって殺されていく様子を目の当たりにした父である神は激しい痛みを覚えたことでしょう。

その父に向かってイエスは叫びました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。 (わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。) 」 (マルコ15・34) 

イエスの心身は極度の苦痛の状態にありました。イエスはどのような気持ちでこの言葉を発したのでしょうか。

イエスを知るとはイエスの苦しみを知ることです。それは、イエスの苦しみに参加することです。イエスは私たちに、自分の十字架を負ってついてくるよう求めています。

ヨハネの福音によれば、「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19・30)とあります。イエスはすべてを父にゆだね、父にささげて地上の生涯を完結しました。

実にイエスは「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ12・2)であります。信仰についての最高の先生はイエスであり、イエスの生涯は最高の信仰の模範です。

イエスはまた言いました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)

「信仰年」に当たり、わたしたちは、国籍、言語、文化、習慣などの違いを超えて、共に祈り働きながら、イエスをよく知るように務めましょう。

わたしたちが聖霊の導きを受け、一つに結ばれ、永遠の命の道をご一緒に歩むことができますよう、聖母の取り次ぎによって祈りましょう。