教区の歴史

教区の歴史

麹町教会説教(イエスの聖心ミサ)

2011年07月01日

2011年7月1日 麹町教会にて

 

第一朗読 申命記(申命記7・6-11)

第二朗読 ヨハネの手紙一(一ヨハネ4・7-10)

福音朗読 マタイによる福音(マタイ11・25-30)

 

  みなさん、今日はイエスの聖心の祭日でございます。通常6月に祝うことが多い日ですが、今年は、復活祭が遅かったため7月になりました。そして6月29日は、毎年聖ペトロ・聖パウロの二人の使徒の祭日でございます。今年は私たちの教皇様ベネディクト16世の司祭叙階60周年を祝う日でもありました。

そのようなわけで、この3日間特別な期間として、わたしたちは教皇様に感謝を捧げるとともに全ての司祭の聖化を願い、また司祭への召命がありますようにと主なる神様に祈る特別な期間であります。

わたしは司教として多くの司祭を叙階してまいりました。司祭叙階式のとき、わたしは大変大きな喜びを感じます。しかし同時に喜びと矛盾するかもしれない複雑な気持ちも持ちます。弱い人間であるこの自分が司教の任務を担っていることを思います。そして同じ弱い人間であるこの人たちが、今自分の手を通して司祭職が授けられようとしているこの人たちが、将来司祭の務めを果たす上でいろいろな困難に出会うかもしれない、あるいは出会うことはもう避けられないとわたしは思います。そして「どうかこの人たちをお守りください。生涯司祭としての道を全うできますよう彼らを導き助けてください。」と祈ります。

さて今日の福音で、主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11・28)

一年前の同じイエスの聖心の日に、わたしは司祭の休養についての司教の書簡を皆様にお送りいたしました。司祭は非常に疲れることがありますし、こころとからだの休養をとらなければならないそのことを信者のみなさまどうかご理解いただきご協力くださいとお願いしたのであります。

疲れた者は休まなければなりませんが、主イエスは疲れた者はわたしのもとに来なさいと言われます。特にわたしたち司祭は自分が主イエスからいただいた職務を遂行する時に疲れを感じたならば、自分にその職務を授けた主イエスのところにおもむき、主イエスから癒しとそして元気をいただくようにしなければならないと思います。

またイエスは言われました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・29-30)

軛というものを今のわたしたちはあまり見る機会がないと思います。どのようなものでしょうか。車の轅(ながえ)の先に取り付ける横木、牛馬の首に当てて車を引かせる農具と言う説明がございます。また次のような説明もございました。聖書に出てくる軛というものは、二つのくぼみをつけた頑丈な横木で、それを二頭の牛の首に渡して車や鋤を引かせていた農具、二頭の牛を一つの軛につけたので、一軛の牛という言い方をするようになったという説明も見つけました。

首につける横木ということですから合わないと痛くて大変だろうと思います。フィットしていないといけない。イエスがくださる軛はその人にぴたっとあったものでありましょう。そしてその軛を人に与えるイエスが一緒にこの軛を担い、引いてくださるのだと思います。

司祭の任務を軛と呼ぶのには、ちょっと、ためらいを感じますけれども、間違いなく私たちは司祭の務めを主イエスから受けております。そして主イエスはわたしたちがその務めを果たすことができるよう必要な助けと導きを与えてくださいます。

わたしたちはまず神様が主イエスを通して、わたしたちに対する深い強い愛を示されたことを何時も思いおこさなければならないと思います。その愛にこたえることができるようどうかわたしたちに自分が受けた愛、その愛の深さ広さ強さを悟らせてくださいと祈りたいと思います。

またイエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15・16)

どうしてこのわたしがこのような任務についているのか、わたしが他の人よりもふさわしく立派で力があり、そして適しているからだろうか、いろいろ考えてみてどうもそのようには思えない。でもわたしがあなたがたを選んだと主イエスは言われました。司祭職を受けたものは誰しも、どうして自分にこのような重大なことができるだろうかと思うときがあるだろうとわたしは思います。それはイエス・キリストから受けた軛、イエスの軛そしてイエスが一緒に担ってくださる軛ではないでしょうか。

今日イエスの聖心の祭日をむかえ、そして同時に日本の殉教者ペトロ岐部と187殉教者の記念日でもあります。日本の司祭、日本で召命を受けた司祭が、その弱さにもかかわらず神の愛を深く悟り、そしていつも主イエスが一緒に居てくださることを深く信じて歩むことができますよう皆様のお祈り皆様の助けを重ねてお願い申し上げます。