教区の歴史

教区の歴史

聖グレゴリオの家研修会ミサ説教

2010年07月18日

2010年7月18日 年間第16主日 聖グレゴリの家聖堂にて

 

今日の福音は有名なベタニアのマリアとマルタの姉妹の話です。

ベタニアはエルサレムの東、2.7キロのところにあり、ベタニアということばは「悩む者の家」「貧しい者の家」を意味しています。イエスはしばしばこの姉妹の家を訪問し、しばしの休息と取り、やすらぎと祈りのときを過ごしたことでしょう。

さてマリアとマルタの姉妹のことです。

「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろなもてなしのためにせわしく立ち働いていた。」

二人の様子が対照的です。マルタはマリアが自分のように働かないのが不満です。そこで、言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」マルタはいわばイエスにクレームをつけたわけです。そのマルタに対してイエスはお答えになりました。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

多くのことに思い悩み、心を乱しているのは実にこのわたしのことでないか、と思います。しかしそれはさておき、東京教区では司祭評議会で司祭の健康について話し合いました。その結果、司祭年が終了した2010年6月11日、イエスの聖心の日に、大司教の手紙『司祭の休養・霊的生活の刷新』を発表いたしました。

司祭は疲労し、大きなストレスを抱え、危機的状態にもおちいることがあっても不思議ではないことを訴えたいと思います。今回のわたしの手紙に対して、「よかった」という賛意と共感を表明してくださったかたが多数おられますが、他方、理解できない、という意見もいただきました。多分その方の知っている司祭には問題・課題はなく、お元気に過ごしておられるのでしょう。しかし司教として教区全体を見る立場にあるわたしにとって、司祭の置かれている現実は深刻です。司祭の休暇・休養の制度を確立することをまず目指したいと思います。

ただし、ただ休みさえすればいいということではありません、休暇をどう過ごすか、どのように休養するか、が課題です。霊的生活の刷新が大切です。

イエスは言われました。「必要なことはただ一つである。」それは何でしょうか?マリアにとってはイエスの側でイエスの言葉を聞くことだったと思います。わたしたちにとって必要なことは何でしょうか?

あれもこれもしなければならない・・・心が乱れ疲れます。みこころが行われますように!今、自分は何をしなければならないのか、あるいは何をすることができるのか?

わたしは一つの祈りを思い出します。Serenity Prayer という英語の祈りです。

 

The Serenity Prayer

God grant me the serenity

to accept the things I cannot change;

courage to change the things I can;

and wisdom to know the difference.

–Reinhold Niebuhr

 

作者はReinhold Niebuhrというアメリカの神学者で第二次世界大戦中に行われた説教の中の祈りだそうです。まず兵士の間で広まり、それから依存症の人々の祈りとして普及したと言われております。

 

ベタニアとは「悩む者の家」「貧しい者の家」。

わたしたちは現代の荒れ野を旅しています。旅人をもてなし、宿を与え、休息させることは大いなる愛の業です。今日の第1朗読「創世記」では、アブラハムはマムレというところで 3人の旅人をもてなしました。実はその3人とは人間の姿をとった主なる神と二位の天使と考えられます。アブラハムは神の祝福を受けて、100歳のときに息子イサクに恵まれました。イサクの子孫がイスラエル民族と考えられます。

さて、わたくしは現代の荒れ野である東京において、教会共同体は荒れ野の泉、オアシスでなければならないと繰り返し言ってきました。今日の聖書から言えば、ベタニアの家、あるいはマムレの天幕とでも言うべきでしょう。

多くの人が迷い、疲れ、病んでいる現代、聖グレゴリオの家が人の癒し、やすらぎ、励ましとしての大切な役割を果たしてくださると期待しそのように祈ります。