教区の歴史

教区の歴史

青梅教会50周年記念ミサ説教

2009年11月15日

2009年11月15日 青梅教会にて

 

今日は年間第33主日、マルコの福音は主キリストの再臨を告げています。

人の子イエス・キリストが来られるときとはこの世界の終わりのときです。「この世界には終わりがある」は全聖書の一貫したメッセージです。終わりのとき、この世界は滅び去るとイエスは言われます。

今日の福音でイエスは

「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」

と言われました。このイエスのことばを深く味わってみたいと思います。

一切のものには終わりがあり、この世界にも終わりがあり、滅び去るときが来ます。それはイエスの再臨のときです。

マルコはこう言っています。

「それらの日には、このような苦難の後、

  太陽は暗くなり、

  月は光を放たず、

  星は空から落ち、

  天体は揺り動かされる。

  そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

  そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

一切のものは滅びさり、その後には「新しい天と新しい地」が出現します。ヨハネの黙示ではこう言われています。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」(21・1-2)

この「新しい天と新しい地」という言葉はすでにイザヤ書に出てきており、またペトロの手紙二にも出てきます。

現実の世界にはさまざまな問題、困難、悪が存在します。しかしそのときには一切の悪は滅ぼされ、神のみ心が完全に行われている世界が実現します。

結局は最後には問題は解決するというならば、わたしたちはいま何もする必要はないのではないか?と思われるかもしれませんが、そうではありません。教会は神の国がすでに来ていることを証しする神の民でなければなりません。教会は現代の荒れ野における泉でありオアシスでなければならないのです。

「東京カテドラルと教区のための祈り」という祈りがあります。その中で次のように祈っています。

「どうかわたしたち東京教区に、現代の荒れ野」において悩み苦しむ多くの人々のいやし、慰め、励まし、希望となって歩む恵みをお与えください。

何よりまずわたしたち自身の間で、互いにいやしと助け、励ましを分かちあることができますよう、導いてください。」

「新しい天と新しい地」に向かって歩むわたしたちはこの地上においてこの祈りを日々生きていかなければならないと考えています。 

わたしはニーバーというプロテスタントの神学者の祈りをいつも思い出します。

それはSerenity Prayer「静けさの祈り」とよばれる祈りです。

「神様どうかわたしに変えることのできないことを受け入れる心の静けさを与えてください。

神様どうか、自分の変えることのできることを変える勇気をお与えください。

そしてその違いを識別するための知恵を授けてください。*」

自分にはどうにもならない現実があります。しかし自分には変えることのできることがあります。いや、自分がしなければならない、あるいは自分しかできないことがあります。

青梅の共同体がしなければならないこと、変えていかなければならないことがあります。

青梅教会の皆さん、どうかこの祈りとともに、この世界を変革していく務めに励んでいただきたい。

 

*The Serenity Prayer

God grant me the serenity

to accept the things I cannot change;

courage to change the things I can;

and wisdom to know the difference.

–Reinhold Niebuhr