教区の歴史

教区の歴史

西千葉教会訪問ミサ説教

2009年05月03日

2009年5月3日 復活節第4主日 西千葉教会にて

 

おはようございます。今日は、「良い牧者の日」です。小林神父さまが茂原教会へ行かれまして、私が代わりに西千葉教会に参りました。茂原教会のスカリー神父様が高齢になられ、体調が思わしくなく、よくお考えになって辞任を申し出られたからです。しばらく日本で療養されてから、アイルランドに帰国される予定です。

スカリー神父様は日本で50年近くの間、「良い牧者」の務めを果たされました。心から感謝を申し上げます。東京教区も司祭の高齢化が進み、また病気の司祭もおりますし、かなり厳しい状況ですが、司祭というものは誰でも良い牧者の務めを果たさなければなりません。 

復活節第4主日は「良い牧者の主日」で、私はこの「良い牧者」というと、旧約聖書のエゼキエルの預言の34章を思い出します。今日は34章の言葉を読みながら、ご一緒に「良い牧者」とはどういう人かを考え、そして、反省したいと思います。

「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。

お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。

お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。

わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。

わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」                       (エゼキエル34・2-8)

以下、長い言葉が続きますが、「群れを養うのが牧者である」と簡潔に言っています。牧者であるわたしたち司教、司祭は本当に群れを養っているだろうか。どのように養っているだろうか。自分自身を養っていないだろうか、・・・身につまされる言葉です。 

エゼキエルに限らず、旧約聖書の預言者の言葉、あるいは、旧約聖書の歴史書などを読みますと、牧者のことが何度も出てきます。列王記という本があります。歴代の王の事績を述べるものですが、「主の目に悪とされることを行った」という決まり文句が出てきます。

「○○王は○年に即位し、主の目に悪とされることをことごとく行い、○年に、どのように死んだ」。主の目に善とされることを行った王と、主の目に悪とされることを行った王と、非常にはっきりと痛烈に評価されています。

旧約の牧者というと主に王たちのことでしょうが、預言者、そして、祭司という役目もありました。今は、わたしたち祭司という新約の奉仕者、公の奉仕者、司教、司祭、そして今日は今井終身助祭が来ていますが、助祭という役務もありますが、みな基本的に牧者です。群れを養う、そして、いのちをかけてでも群れを守り、育て、癒し、探し、強める。それが牧者であります。

昨年11月24日に「ペトロ岐部と187殉教者」が列福されました。この188人の中の4人が司祭です。4人に絞りました。信徒の方にたくさん入っていただく、そういう司牧的方針があったのですが、この4人は模範的な牧者である殉教者の司祭、文字どおり、生命を賭して司牧し、司祭の務めを果たしていたために、処刑された。そういう方々であります。

今は400年前と比べて大変異なった状況でありますが、公権力による迫害はないものの、群れは本当にいろいろなもの、いろいろなことに脅かされ、弱められ、病み、疲れているのではないでしょうか。

私は、何度も「現代の荒れ野」ということを思い出し、口にしております。教皇ベネディクト16世が即位なさった時におっしゃった言葉です。「今の世界に荒れ野がある」ということです。今の世界、特にわたしたちが生活し、仕事をしている東京とその周辺、首都圏は荒れ野であると思います。本当に生きるのが難しい、生きるのを難しくさせている状況があるのではないでしょうか。そういう状況の中で、小さな存在でしかないカトリック東京大司教区は一生懸命、牧者の務めを果たそうとしております。数々の課題、問題の中で、特に重要な課題・問題を3つに絞り、3つを「優先課題」としております。 

第1にわたしたち教会の一人ひとりが霊的に成長すること。特に司祭と信徒の協力が改善され、発展することを願っております。従来「信徒の生涯養成」と言っておりましたが、信徒がよく養成されていないので、しっかりしてもらおうということではありません。だから「信徒の生涯養成」という言葉はやめました。司教も司祭も修道者も、教会のメンバーがお互いに教え合い、助け合い、支え合って、霊的に成長しようというものです。わたしたちは神の霊を受けた神の民であって、その霊の勧めに促されて、キリストの体をつくり、表していくものであります。私は司教であるので、司教の務めを果たしているつもりではありますが、後の人からどう評価されるか、神の目に善とされることを行ったのか、悪とされることを行ったのか、両方それぞれあったのかわかりません。司祭が本当に皆さんによく仕え、一緒に力を合わせて、復活なさったイエス・キリストの姿をあらわし、伝えてくださるようにと願い、そのために配慮しているつもりですが、うまくいっているとは限りません。

今は、宣教協力体というグループになっておりますが、前は地域協力体、その前はブロックと言いました。歴代の司教様たちは、隣の教会同士がもっとよく協力するようにと願い、いろいろな試みをしました。カトリック教会は縦の構造が強いので、すぐに本部や司教に問題を持ち込んだり、訴えたりします。何でも上に話して一発でことを決めようとする傾向があります。そうして一つが取り上げられ終わると、また別のところから別のことが入ってくる・・・それを何とか止めたいとお考えになったのでしょう。自分たちのことは自分たちで相談し、解決し、改善できるようにと考えられてきました。

そのためには、司祭と信徒がよく話し合うことが一番大切です。司祭は信徒の話をよく聞いて下さい。そして信徒は勇気を持って、しかし謙遜に、礼儀正しく司祭に自分の意見を伝えて下さい。

最近の神父様たちは、どちらかというと優しい方が多いので、自分はこうだと思っても言わないで我慢してしまいます。「どうしてそれを言わないのですか」と言うと、「いやあ、言うと、波風が立ちますから」と。言わないから波風が立っているのではないか、と思うくらいですが。 

 (長く話すわけにはいきませんが)優先課題の2番目は、外国から来た方が多い教会、多国籍教会である、多民族共生の教会として成長していかなければならないということです。 

3番目は「心のケア」の問題です。今の時代、ストレスが多いので、心が病み、疲れている人が非常に増えてきました。以前からそういう方たちはいらしたのでしょうが、最近特に目立ちます。教会として力になりたい。それにはどうしたらよいでしょうか。

東京教区では「東京カリタスの家」という財団法人を創って、家庭・家族福祉相談に取り組んでいます。更に色々な努力をしなければなりません。西千葉教会でも心に問題を感じている人のために、多くの方が努力し、奉仕して下さっていることを聞いております。本当にありがたいことだと思います。教会はそういう方々を優先的に受け入れて、居る場所をつくる。その人たちに安心、安らぎを感じてもらえるようにしなければなりません。今の社会で後回しにされ、退けられてしまう人たちです。今の社会の基準に合わないから、除け者にされてしまいます。そもそも教会というのはその当時の社会の基準や習慣に合わない人たちがイエス・キリストの周りに集まってできたものであると思います。私自身、なぜ自分は司祭になったのかと考えてみると、そういう方々のために働くためではなかったかと思います。助け、養うためではなかったかと思います。でも、だんだん管理的な仕事が増えて、組織を維持したり守ったりする方に、わずかしか持っていないエネルギーを放出してしまう、そういう日々です。たいへん寂しいというか情けない気持ちがしています。 

今日は「良い牧者の日」、皆さまの司祭が良い牧者として働くことができますように。そして司祭も励ましや慰めが必要でありますので、お祈りとともに、ちょっとした励ましを差し上げていただければ、大変喜んでいただけると思います。