教区の歴史

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受難の主日説教

2009年04月05日

2009年4月5日 潮見教会にて

 

 

「(午後)三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」 

今日の受難の朗読です。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」このイエスの叫び声は人々の心に非常に強い印象を残しました。マルコはその声をできるだけイエスの発声のとおり伝えようとしたのでしょう。そしてその意味を記しました。これは詩編22の最初の言葉です。詩編22は今日の答唱詩編となっています。詩編22は3つの部分から成り立っています。ミサの答唱詩編はこの三部構成を巧みに要約しています。

福音書は十字架上のイエスの言葉を7回として伝えています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」は4回目の言葉です。イエスはこの詩編22の冒頭の言葉をもって全体を伝えたと思われます。

十字架に釘付けにされたイエスの苦しみは非常に大きなものでした。肉体の苦痛は筆舌に尽くしがたいもの。

口は渇いて素焼きのかけらとなり

舌は上顎にはり付く。

あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。(詩22・16)

犬どもがわたしを取り囲み

さいなむ者が群がってわたしを囲み

獅子のようにわたしの手足を砕く。(詩22・17)

しかし、さらにその上の精神的苦痛。人間の尊厳への著しい侵害、嘲りと侮辱が加えられました。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い

唇を突き出し、頭を振る。

「主に頼んで救ってもらうがよい。

主が愛しておられるなら

助けてくださるだろう。」(詩22・8-9)

弟子たちはイエスを見捨て離れ去ります。ペトロは鶏が二度鳴く前に三度イエスを否みました。「たとえ死ぬことになってもあなたを知らないなどとは決して言わない」と大見得を切ったペトロでした。人は人とのつながりの中で生きるもの。イエスは真に人間であったので、《弟子の裏切りはなんともなかった。その展開は既に読み込み済み、平気であった。》というわけではありませんでした。イエスは孤独と悲嘆の中に置かれます。イエスの苦悩は見捨てられるという苦悩です。

人からは見捨てられても天の父は見捨てない。イエスはそう思ったはずです。でも、人間イエスの口からは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」という言葉が出てきました。

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

わたしの神よ

昼は、呼び求めても答えてくださらない。

夜も、黙ることをお許しにならない。(詩22・2-3)

 

『沈黙』という小説があります。殉教する者に向かって何も語らない神の沈黙がテーマです。イエスも父に向かって、「なぜ何も仰ってくださらないのですか」と叫びます。

たとえ人から裏切られ侮られ見捨てられても、神は私と共におられる。神は私の助け、救い。でも本当にそうだろうか?なぜ自分はこのような目に遭わなければならないのだろうか?

イエスがそう思ったかどうかはわかりません。神の子ですからそんな思いを抱くはずはないと思います。でも人間として、人と神から見捨てられるという苦悩を味わったのは確かです。だからこそ、見捨てられたという苦悩を抱く人の救い主になったのでした。イエスがすべての人の贖い主であるというのは、すべての人のすべての苦悩からの解放者であるという意味です。そして解放するためにイエスはすべての苦しみを自分のものとし、父なる神に献げ、死に至るまで父に従順でした。そのイエスに天の父はどんなに沈痛な思いだったでしょうか。この父の思いをある著名な日本の神学者が「神の痛み」と呼びました。

十字架上のイエスの最後の言葉は、

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)です。

イエスは父への信頼をもって自分の霊を父にゆだねました。

詩編作者は言っています。

主は貧しい人の苦しみを

決して侮らず、さげすまれません。

御顔を隠すことなく

助けを求める叫びを聞いてくださいます。

それゆえ、わたしは大いなる集会で

あなたに賛美をささげ

神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。(詩22・25-27)

詩編22は神への賛美と信頼で終わっているのです。

 

イエスが神からも見捨てられるのでないかという苦悩を味わったのは、わたしたちにとって大きな慰めです。イエスが贖い主であるのは、まことの人間として最も苦しい試練を受け入れ、それを父である神にお献げになったからであります。

どうかわたしたちに、父へのもっと深い信仰と信頼を与えてくださいと祈りましょう。