教区の歴史

教区の歴史

師イエズス修道女会修道誓願宣立50周年記念ミサ説教

2009年03月22日

2009年3月22日 師イエズス修道女会本部(八王子)にて

 

修道誓願宣立50周年者
シスターマリア・タルチジア 浅田 ソミ
シスターマリア・リリア 近藤 和
シスターマリア・アグネス 新貝 一枝
シスターマリア・グラチア 塚本 順子
シスターマリア・レティチア 廣田 ノブ

 

第一朗読 雅歌(8・6-7)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙一(1・22-31)
福音朗読 マルコによる福音(10・24b-30)

 

5人のシスターの誓願宣立50周年の金祝、おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。50年前といえば1959年、わたくしはまだ高校生でした。今、召命の減少が心配されていますが、当時はまだ修道生活への召命が多かったときでしょうか。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マコ10・29-30)

今日の主イエスのおことばです。今日、修道誓願宣立50周年を迎えられた皆さんは、このおことばを何度も黙想し、決心して、修道誓願をお立てになったことでしょう。修道院へ入るとは家を出ること、親、兄弟姉妹に別れを告げることを意味していました。 

今日はこの修道誓願の金祝ミサを依頼され、この機会に、わたくし自身の召命について振り返りを行いました。わたくしの場合は修道生活ではなく教区司祭への召命でした。今さまざまな思いを持っています。

現在、修道者・司祭を志す者が減少していますが、それは子供の数が少ないことに関係があると言われています。確かに出生率の低い時代、一生独身で神と人に仕える人生を選ぶのは難しいことであり、家族にも負担をかけることになります。しかし、また考えてみれば、いつの時代でも司祭、修道者への召命に子供を捧げることは親にとって大きな犠牲であります。皆さんの時代でも、親にとってそれは辛いことでありました。

わたくし自身の場合、自分が司祭の道を選んだために、両親、残された家族は大きな困難を体験しました。さぞ辛いことがあったのではないかと思わざるを得ません。わたくしはもちろんよく考え、祈り、その結果イエスの呼びかけに応えようとして司祭への道を選びました。その際、家族のことを思わないわけではありませんでしたが、家族の了解を得たわけではありませんでした。若いときにひたすら召命への思いを強くし、その「勢い」があって司祭への道を歩むことができたのです。しかし、今頃になって、自分が司祭になったために両親、家族が被った苦労をしみじみ思わされています。

神は「あなたの父母を敬え」(出20・12)と言われました。司祭であっても、もっともっと家族を大切にできたはずでした。

イエスが父と呼んだ神はエジプトで奴隷であったイスラエルを解放された主なる神です。その同じ神は、「あなたの父母を敬え」と言われたのです。司祭であること、修道者であることを理由にして、この第 四戒が免除されるわけではありませんし、両親、家族をないがしろにしてよいわけではありません。司祭・修道者もその召命を生きながら、この掟を守っていくことができるはずです。 

もっとも教区司祭と修道者はこの点についてまったく同じことが言えるとは思いません。そうですが、それでは「あなたの父母を敬え」の掟と修道誓願の関係をどう考えたらいいでしょうか。

修道誓願を生きる皆さんの召命は、地上の父母・兄弟姉妹へ天の父を示すこと、道・真理・命である師イエス・キリストに従う生涯を捧げながら、すべての人を天の父のもとへ集めて一つの神の家族とするという召命ではないでしょうか。

どうか父である神の家族のために皆さんの修道生活を捧げてください。典礼と司祭職に奉仕すること、ご聖体への祈りと礼拝を大切にするという皆さんの召命は、神の家族への奉仕、神の家族を一つに集めるための奉仕であると思います。

現代の家庭と家族は大きな危機を体験し、家庭崩壊の恐れも感じられます。親子、兄弟姉妹、夫婦という人間の基本的なつながりが薄く弱くなっています。教会の課題は、いかにしてイエス・キリストにおいて、人類を一つの家族として集めるかということです。 

わたくしは今の日本の社会を「現代の荒れ野」と呼んでいます。特に東京教区の置かれている地域は多くの人が心の傷を負い、迷い、道からはずれ、孤独と不安に苦しんでいます。教会は荒れ野の泉、闇を照らす光でありたいと願っています。

「パウロ年」も残すところ、あと3ヶ月あまりとなりました。わたくしは以前、パウロという人は、非常に強い、たくましい、タフな人、不屈の闘士、と思っていました。しかし、パウロ年を迎え、改めてパウロの手紙を読むと、彼は自分の弱さを痛感していた人であることがわかります。2008年6月28日のパウロ年開始のミサで申し上げたことですが、パウロはサタンから送られた使いである「とげ」に苦しみました。このとげが何であったのか諸説があるようです。パウロはこのとげを取り去ってくださるよう三度も主に願いました。しかし、主の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリ12・9)というものでした。そこでパウロは言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(二コリ12・9-10) 

わたくしは今の自分の任務の重さを思うときに本当に無力を感じます。このパウロの言葉を深く味わい、キリストの光と力を豊かに受けることができるよう祈ります。

司教・司祭は弱いものです。欠点を持つ人間であります。問題にぶつかりながら、何とか皆さんに助けられてやっているのです。司祭職への奉仕は皆さんの使命です。どうか皆さん、司教・司祭が、ユダヤ人には躓きであり、異邦人には愚かである十字架のキリストを、神の力、神の知恵として宣べ伝え、証ししていくことができますようにと祈ってください。