教区の歴史

教区の歴史

赤堤教会訪問・年間第2主日ミサ説教

2009年01月18日

2009年1月18日 赤堤教会で

 

第一朗読はサムエル記(上)の少年サムエルの話です。その誕生の次第を読むとそこにはサムエルの母親の深い、強い思いがあったことがわかります。「主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた」(サム上1・20)とあります。「その名は神」が人の名前とは驚きますが、この名前に両親の思いが込められているのでしょう。本来、子どもは両親から神に願って与えられる神の賜物です。

幼いサムエルは神殿にささげられます。そのサムエルに主が話しかけます。主がサムエルをお呼びになります。「主よ、お話ください。僕は聞いております」と答えるサムエル。ここに、人が神に対してとるべき姿勢の基本があります。わたしたちは神にお話し、いろいろお願いします。それが祈りです。しかし、もっと大切なのは、「神に聞く」ということではないでしょうか。 

第二朗読のコリントの教会への手紙では、パウロは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(一コリ6・19-20)と説いています。代価はキリストの十字架の血です。

自分の体で神の栄光を現すとはどういうことでしょうか。

健康に気をつける、太りすぎないよう、もちろん痩せすぎしないよう、見た目のよい容姿をつくることもいいでしょう。でもここで、神の栄光を現すとはそういうこととは違うように思われます。パウロは性的な汚れの問題を言っているようですが、さらに広く深い意味もあると思います。

殉教者の証しはその例です。殉教者は自分の体で神の栄光を現しました。例えば、昨年11月24日に列福された江戸の殉教者ヨハネ原主水の証し。体は主のためにあります。わたしたちは地上においては体でしか主を現すことができません。 

ところで、体は言葉とともに働きます。

仏教で「十善戒」という教えがあります。これはキリスト教の十戒にあたるのでしょうか。そのなかに次のような戒めがあります。

嘘をつかない。(不妄語)

飾り立てた言葉、ありもしない事を言って人にへつらわないこと。(不綺語)

乱暴な言葉を使わない。(不悪口)

筋の通らないことを言わない、二枚舌を使わない。(不両舌)

十の戒めのなかで実に四つは言葉に関するものです。この四つを守るのは易しくはないですね。新約聖書のヤコブの手紙でも「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(3・2)とあります。言葉で過ちを犯さないよう注意したいものです。2009年は、とくに体と舌に注意する年にしたいと思います。 

今日のヨハネの福音はヨハネの召命を語ります。「その日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(ヨハネ1・39」

晩年、使徒ヨハネはイエスとの出会いを回顧してヨハネの福音一章にこの部分をしるしたのでしょう。

使徒の後継者が司教、司教の後継者が司祭です。この度列福された188人の殉教者のなかに4人の殉教者の司祭が含まれています。ジュリアン中浦、ディエゴ結城了雪、トマス金鍔次兵衛、ペトロ岐部カスイの4人です。この4人の司祭はよい牧者として、司祭の務めを忠実に果たし、最後には羊のために命を捧げました。

今のわたしたち司教、司祭はどのように自分の務めを果たしているでしょうか。羊を養うのではなく自分自身を養っている牧者ということはないでしょううか。

「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。・・・牧者は群れを養わずに、自分自身を養っている。・・・まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。・・・わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。」(エゼ34・2-23)

エゼキエル預言者をとおして言われた主の言葉です。人間は弱いものです。司祭は自分の弱さを自覚し、謙遜でなければなりません。自分を養う牧者ではなく群れを養う牧者として忠実に使命を全うできますよう司教、司祭のためにお祈りください。