教区の歴史

教区の歴史

高円寺教会訪問 ミサ説教

2006年01月15日

2006年1月15日 高円寺教会9時半ミサ

 

年間第2主日(B)
第一朗読 サムエル上3・3b-10、19
第二朗読 一コリント6・13c-15a、17-20
福音朗読 ヨハネ1・35-42

 

今日、晴佐久神父様にお話して、皆様の共同体を訪問させていただいています。今日のミサで朗読されました聖書のことばを味わいながら、私たち自身のキリスト者としての生き方を一緒に深めたいと思います。 

第一朗読、有名な少年サムエルの話であります。よく絵なんかに出てくる場面であります。主が少年サムエルをお召しになり、サムエルに呼びかけられます。でも、最初サムエルは自分が呼ばれているということに気が付きません。少年サムエルはエリという祭司のもとに預けられていたわけですが、このエリの指導、やはり指導っていうか助けが必要なのですね。エリの指導によってサムエルは神の呼びかけに耳を傾けるようになります。「主よ、お話ください。僕(しもべ)は聞いております」。この言葉を、私たちも自分の言葉として申しあげたいものです。「主よ、お話ください。僕は聞いております」。 

召命という言葉がございます。神が一人ひとりをお呼びになり、ご自分のご用を授けてくださる。そういうふうに考えます。普通は司祭、修道者への召命を思いますが、誰でも召命をいただいています。神はすべての人に呼びかけられます。ですから、誰でも「主よ、お話ください。僕は聞いております」と答えることができます。私たちは神から遣わされ、神の呼びかけを受けている者です。これは非常に大切なことではないでしょうか。 

今日、朗読されましたヨハネ福音書に最初の弟子の召命が語られています。二人の弟子というのは誰なのでしょうか。おそらく、使徒ヨハネ、それからアンデレでしょう。アンデレの名前ははっきり出ております。そして、その兄弟のシモン(あとでペトロと呼ばれます)も兄弟を通してイエスに出会い、そして召命をいただきます。そういう話でございます。この三人の人たちの話とは、最初の教会を作った重要な弟子たちの召命の話です。 

ここに「午後四時ごろのことである」と出ています。これは、弟子たちが最初にイエスに出会って何年も経って、どのくらい経ってからでしょうか、「ああ、四時ごろのことであった」と、そういうふうに回想しているような意味合いが、ジンと伝わってきます。「自分がどうして今こうなっているのか? いつ自分の生き方は始まったのか? それはあのとき、イエスに出会って、そしてお話を聞いて、その始まりがちょうどあの日の午後四時ごろだった」と、そういうようにしみじみと思い起こしているような気がいたします。 

そして、「その日はイエスのもとに泊まった」とあります。この「泊まる」という言葉は、聖書の中で非常に重要であります。「とどまる」とか「つながる」とも訳せるようであります。イエスのもとに泊まる、留まる、つながる。そういう言葉であります。私たちもイエスに出会い、イエスの呼びかけを受け、そしてそれに答えてイエスに留まって歩んできました。そこにキリスト者の召命があるように思います。この「つながる」ということは、非常に意味深いことだと思います。いつも私たちは主イエス・キリストとつながっている。イエスがいつも一緒にいてくださる。導いてくださる。そういう信仰を持って歩んでおります。ぶどうの木のたとえ話を思い出します。「私はぶどうの木」とイエスさまがおっしゃいました。私たちはぶどうの木であるイエスさまにつながっている枝であります。そして、主の霊、神の霊である聖霊を受け、聖霊のいわば神殿となってキリストの体、教会を作り、そして私たちが教会として、復活された主イエス・キリストを伝え、証しする者となりました。 

今日は「召命」ということを深めたいと思います。召命、一人ひとりの召命…司祭になろう、そういう召命。この教会は多くの司祭を出してくださっています。東京教区にとって非常に大切な教会でありますが、繰り返しますけれども、召命というのは誰にでもあります。「私は神様から召されている」。この思いが私たちを支えてくれます。「なぜここに自分がいるのかわからない」「何を自分はしたらいいのかわからない」。それじゃあ、困るわけでありまして「私がここにいるのは、こうしているのは、神様が呼んでくださったから」。そう思えるようでありたいと思います。弟子たちがイエスに出会って、そしてこの二人の弟子はイエスと一晩共にしたようです。この一晩、どんな話があったのでしょうか。この弟子たちにとってどんな体験であったのでしょうか。非常に知りたいですね。想像するだけなのですけども、この一晩が彼らの人生を決定的にした、その生き方を変えた出発点になったと思います。私たちにもそれと似たような、まあそこまでではないにせよ、そういうような自分の生き方を決定する重要な出来事があったかもしれません。 

さて、一人ひとりに召命があるように、教会全体も召命を持っています。私たちの教会、それは、この世界の中でイエス・キリストの救いをのべ伝える、すべての人に神の愛を表し伝えるという召命であります。そして、世界に広がる教会、世界中に多くのキリスト者がいます。そういう中で話をもうちょっと縮めまして、カトリック東京教区、高円寺教会にはどういう召命があるのでしょうか。もちろん、一般的に言えば神の愛を伝える、自分の信仰を表し伝える、ということであります。私には私の召命があるように、東京教区には東京教区の召命があるのではないか。そういうように思います。今、私たちはどういう状況に置かれているのでしょうか。そう言うと、私の心に浮かんでくる言葉があります。それは、「砂漠」あるいは「荒れ野」という言葉です。 

昨年、私たちの教皇様は、交代と言うと変ですけども、ベネディクト16世教皇様が就任なさいました。そして、ヨハネ・パウロ2世教皇様、非常に長い間、本当に偉大な教皇として務められました。これは大変な出来事です。カトリック信者にとっては大変な出来事なのですけれども、世界的にどうなのかなあというと、世界の出来事としても非常に重要であったと思います。日本ではカトリック信者は、キリスト教徒は少ないからあまり大したことないのかなあというふうに感じていたら、いやそうではありませんでした。やっぱり日本の人々もこの出来事には大変大きな関心を持ってくださったように思います。そういう出来事の中で、ベネディクト16世、ラッツィンガー枢機卿様ですが、ベネディクト16世となられました。そして就任のときの説教、どんなことをおっしゃるのかなあと思いましたけども、この「砂漠」とか「荒れ野」、まあ「砂漠」と訳すのか「荒れ野」と訳すのかよくわからないんですが、そのことをおっしゃったんですね。今の世界はどのような世界でしょうか。さまざまな問題があります。困難なこともあります。あるいは、病み疲れている人々がたくさんいます。そういう中で、神の命を私たちは生きていきます。神の命を受けて、その命を多くの人に証していきます。砂漠の中のオアシス、泉、それが教会なのです。そういうことをおっしゃったと思います。 

日本という国、そして東京、そして首都圏、ここで生きている私たち、多くの人は本当に神の命、救いに飢え渇いております。それを神の命と自覚しているかどうか、そういう言葉で自覚しているかどうかは別として、本当に救いを求めております。私たちはその人々に答えていかなければならないのです。そして、自分自身がイエスに出会い、そしてそこに命を見出したことをはっきりと宣言するように召されていると思います。私たちは、イエスとの出会いを通して自分自身のいわば癒し、赦し、罪の赦し、そして自分たちが持っているさまざまな傷、病からの癒しを経験しました。あるいは経験しつつあります。この私は誰なのでしょうか。どうして今ここにいるのでしょうか。神が呼んでくださった。神が一緒にいてくださる。イエス・キリストをお遣わしになった。そして教会を作ってくださった。そこに神の力が働いている。私は弱い者だ。間違う者だ。だけどこの私を受け入れ、かけがいのない人として大切に思ってくださる。そしてお互いにそう思える仲間がいる。この仲間、つまり私たちであります。その私たちの生き方をはっきりと示すことが、私たちの教会の使命、福音宣教であると思います。この高円寺教会を通して、多くの人が神の愛に触れ、自分自身の癒し、そして赦しを体験していることを私は聞いて、大変嬉しく感じております。私たち自身がほんとに癒しと赦しの体験者であり、その喜びを日々生きているのであれば、そのこと自体が立派な福音宣教になると思うのであります。 

どうか、私たちのこの信仰を深めてくださるように、そして知恵と勇気をもって自分の信仰を伝え、証しすることができますよう、聖霊の導きを願いましょう。