教区の歴史

教区の歴史

年間第4主日ミサ説教

2005年01月30日

2005年1月30日、西千葉教会にて

 

おはようございます。突然、訪問してご迷惑ではないかと心配しています。

先ほど小林神父様がご紹介くださったように、私は30年ほど前、半年だけ白柳大司教様の命令で西千葉で働かせていただきました。もっといたかったのですが、わずか半年で転任となってしまったのです...。

ところで、皆様の主任司祭をしておられた幸田和生神父様が今度東京教区の補佐司教に任命されました。2月19日が司教叙階式ですので、是非ご参列いただき、お祈りしていただきたいと思います。東京教区のために私を助ける司教ということですから、私のような司教を助けなければいけないので、ほんとうにお気の毒ですが、私よりも大変になるであろう幸田補佐司教を支えてくださるようにお願い申し上げます。

さて、本日のミサの福音は「山上の説教」です。誰でも知っている有名な箇所ですが、正直に言いますと難しいです。「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」これからして難しいですね。「難しい」などと言ってはいけない、「こうなのです」と言わなければいけないのですが、やはり難しいです。なぜ、「幸いである」のか。「心の貧しい人々」というのは何か。「心の貧しい」というのが、そもそも日本語ではつまずきです。「心の貧しい」というのは心がさもしいとか、がつがつしている、心が曲がっている、というように良い意味ではありません。ですから、山上の説教をするときには、説明をしなければなりません。

この箇所を直訳すると、「霊において貧しい」となるようです。ところが、並行箇所のルカ福音ではもっと端的に、「あなたがた貧しい人々は、幸いだ」と言っているのです。だから、貧しい人が幸い、なのです。これがまた解りにくいわけです。「貧しい人」は幸いとは思いません。特に今の日本の社会では、金持ちの方がいいわけです。しかし、考えてみると、たくさん持っていると、いろいろ心配なこともありますし、心がそちらの方へ奪われ、束縛され、心が豊かになれない。やっぱり持っていない方がいい。「離脱」ということでしょうか、そのように常識的に考えることも可能です。しかし、貧しければいろいろな問題があるわけでして、常識的に考えると、そんなに貧しくない方がいいと思うし、かといって、そんなにお金持ちであったら大変ですので、ほどほどに収入なり資産があった方がよいと思います。旧約聖書にも、神様にお願いする話があります。「わたしをそれほど金持ちにしないでください。そして、それほどみじめな貧しい者にしないでください。ほどほどのところでお願いします。」虫のいい話ですが、そういう祈りをささげています。イエス様のメッセージはいろいろなところで常識と合いません。合わない、というところが大事なのです。合わないのに、合っていると思って、無理矢理自分を納得させるとかえってよくないと思います。

実は今日、ここでお話しするので、幸田神父様はどう話されるのかなあと、彼がホームページに載せている「福音のヒント」をちょっと拝借しようと思って見ましたら、良いことを言っています。ホームページを閲覧できる方は見てください。「心の貧しい」という言い方は非常にまずい、誤訳といっていいくらいだ、と彼は言っています。「心が貧しい」という日本語は確かに、本当の意味を伝えないのです。むしろ「心」がない方が分かり易いです。イエスの周りに集まったのは貧しい人々でした。経済的に貧しかった人、病気の人、障害を持っている人、寄る辺のない人、なんら社会で自分を主張する手だてがない、惨めな、見捨てられた、後回しにされた、本当に情けない気持ちで生きていかなければならない人たちでした。そういう人に向かって、「あなたがた、貧しい人々は幸いだ」。全然幸いではない、この人たちは幸いだとは思っていません。幸いでない人たちに向かって、「幸いだ」と言い含めるのはインチキではないか。(宗教はインチキ臭いところがあるわけです。)

なぜ、イエスは「幸いである」と言ったのか。マタイの「天の国」は、「神の国」と同じです。普通は「神の国」=神の支配、神の支配が行われる、神が王として支配される、と説明するわけです。「神様は、あなたがたのことをよく分かっている。あなたがたは、神様の子どもであり、あなたがたの苦しみ、悩みを放っておかれるはずがない。神の国はすでに到来した。そして、神の国は完成する。その神の国に真っ先に入るのはあなたがたなのだ。」 「心の貧しい」というのはまずいので、日本語のいろいろな翻訳を見ると、「自分の貧しさを知っている人は幸い」と訳している場合もあれば、「神にだけ寄り頼む人は幸い」と訳しているものもあります。神様にしか頼れない、他のものに頼ろうと思っても、お金も、地位も、何もない。神様はそういう人を助けるのだよ、そういう人を大事に思っているのだよ、だから、あなたがたは幸いなのだと。逆に言うと、わたしたちの信じている神は、そういう神様なのだということです。

旧約聖書には「残りの者」という考えがありますが、排斥され、今にも根絶されそうな人たちが最後に残った。その残りの者から救い主、メシアが来られて、イスラエルを再興してくれる、という信仰があったようですが、イエスは、その残りの者の考え方をもっと深めて、神様というのは、本当に貧しい人、弱い人、惨めな人の神様なのだ、ということをおっしゃいました。そして、そういう人々と一緒に歩まれ、最後はご自身、最も貧しい者として十字架にかけられました。そして、そのイエスを天の父は復活させられました。そういうイエスのメッセージを、そしてその生涯を、わたしたちは福音として信じています。

貧しさ、貧困ということがいいというのではありません。「あなたがた貧しい人々は、幸いだ。だから貧しいままでいなさい、貧しいことは良いことなのだ。病気、貧困、欠乏、は神様の恵みなのだから、もっと貧しくなりなさい」というメッセージではありません。この世界のさまざまな問題を解決するように努力しなさい。神様はそれを望んでいます。

教皇様は、聖体の年を宣言なさいましたが、「主よ、わたしたちと一緒にお泊まりください」という教皇書簡を出されました。ヨハネ福音書13章を、皆さん読んでください。イエス様が最後の晩餐をした箇所です。マタイ、マルコ、ルカとパウロの手紙(1コリント11)には、ご聖体の制定が告げられていますが、ヨハネ福音にはご聖体のことが出てこないのです。その代わりに13章にイエスが弟子たちの足を洗ったという話があります。教皇様は「ヨハネはご聖体のことを言う必要はなかった。ご聖体をお定めになったイエス様の心を伝えたいと思った。それは、仕え合うこと、互いに足を洗い合うこと、それがイエスがご聖体を定められた主旨である」とおっしゃっています。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。兄弟として仕え合う。現代の世界の問題を分かち合う。その問題の解決のために力を合わせることだ。世界に存在するさまざまな形態をもった貧困、経済的な貧困だけでなく、精神的な貧困、病気、障害、人間の孤独、精神の闇のようなもの、そういうマイナス要因を分かち合い、それを克服するようにと、わたしたちは呼びかけられています。病気とは何なのか、障害というのは何なのか、神学的に言って、難しい問題です。

今度、教皇庁では「善いサマリア人基金」を設立いたしました。これはエイズのための基金です。エイズ治療や克服するためのいろいろな研究、(特に大切なのは教育だそうですが)子どもたちの教育のために使うお金を集め、世界中に分配したいので、世界中の司教をとおして、それぞれの教区の善意の人々に呼びかけてくれという手紙が届いています。

ご聖体の年です。ご聖体の前でお祈りするとともに、ご聖体をお定めになったイエス様の心を自分の心とし、現代の問題の解決のために力を合わせていこうではないかと、皆様にも呼びかけたいと思います。