教区の歴史

教区の歴史

東京教区助祭叙階式のミサ

2003年03月09日

2003年3月9日、立川教会にて

 

毎年四旬節第一主日は、イエスが宣教を始める前に荒れ野で40日間過ごした次第が告げられます。マタイの福音とルカの福音によれば、この間イエスは悪魔から3回にわたって誘惑を受け、それに打ち克たれました。3つの誘惑のなかに、「もし悪魔を拝むならばこの世のすべての権力と富を与えよう」というものがありました。イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、旧約聖書・申命記のことばでこの誘惑を退けました。

今日の福音はマルコです。イエスは宣言しました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス・キリストはこの言葉によって福音宣教・福音化の働きを開始されました。

神の国とはすなわち神の支配です。それは神のみこころが行われることにほかなりません。イエスの全生涯は、主なる神を礼拝し、主のみ心を行うことによって貫かれていました。イエスの福音化の活動と存在自身が神の国の到来を示していました。イエスは神の支配の実現そのものでした。

わたしたち教会はイエスの福音化の使命を受け継ぎました。ただし、イエスと教会の間には違いがあります。イエスは神の国の到来そのものでしたが、教会は神の国の到来のしるしです。神の国そのものではありませんが、神の国がすでに来ていることを証する神の民です。神を神として礼拝することにより神の国の到来のしるしとなるよう務めることが教会の在り方です。

先月2月、臨時司教総会が開催され、そのなかで「依存症」についての大変有益な研修会がありました。依存症は英語ではaddiction、『アディクション、嗜癖、依存』などと訳されます。たとえば、アルコール依存症というものがあります。

依存症にはアルコールなどの物質に関するもの、ギャンブルなどの行為に関するもの、そして人間関係に関するものなどがあるとのことです。わたしたちは食べなければ生きていけませんし、仕事もしなければなりません。他の人の手を借りなければ一日として生きてはいけません。だから何かあるいは誰かに依存するということは当然であり、決して悪いことではありません。しかし程度が過ぎると「依存症」になる、ということだと思います。わたしたちは神だけを礼拝するのであり、神以外のものや人とは適切な距離を置いてかかわるべきです。ただ神を神として礼拝するという信仰のなかに、この世に存在する物質・行為・人間とのふさわしいかかわりがあるのだと思います。

 

使徒ヨハネ 林 正人さん

いまあなたはこの神の民のなかで助祭という奉仕の務めを受けようとされています。助祭は司教の協力者として神の国の到来と主イエスの復活の証人となるという務めを行うよう求められます。それは決して容易な務めではありません。神の助け、恵みを心から祈りましょう。神の恵みなしにわたしたちはこの務めを果たすことはできないのです。

戦争の危機をはらむ今の世界状況は決して神の望まれるような状態ではありません。日本の社会の現実も厳しいものであり、神の国の到来とはほど遠い状態にあります。人間にとって最も大切な支え・安らぎであるべき家庭も、困難な状況におかれています。

わたしたち教会はそのような世界・社会の真只中に置かれています。わたしたち自身もさまざまな問題に巻き込まれ、解決と解放を求めて悩んでいます。教会とは神の国の完成を目指し旅する神の民です。問題があっても神の支配を信じ、受け入れ、証ししようと努める神の民です。

林さん、ただ神だけを礼拝し、神がお造りになったすべてのものをふさわしく評価し、正しい距離をおいてかかわるよう心がけてください。あなたがそのように生きようと努めならば、あなたの存在と言動は多くの人の慰め、励まし、癒し、救いのしるしとなると信じます。

あなたのこれからの歩みの上に、神の助けと恵みが豊かに与えられますよう、切に祈ります。