教区の歴史

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主の降誕・夜半のミサ(カテドラル)

2002年12月24日

2002年12月24日  東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

皆さん、今年も残すところ僅かとなりました。間もなくわたしたちは新しい年、2003年を迎えます。

きょう、2002年の降誕祭・クリスマスを祝っています。わたくしはこの機会に、この過ぎ去ろうとしている年がどんな年だったのか、いまわたしたちの世界はどのような状況に置かれているのか、わたしたちが住んでいるこの国・日本はどのような状態にあるのか、しみじみと考えないわけにはいきません。

相変わらず国際社会は不安定であり、戦争の危険は去りません。アメリカ合衆国によるイラクへの軍事攻撃があるのではないかという恐れと緊張が人々を不安に陥れています。国内を見れば、政治的にも経済的にも「閉塞感」、つまり行き詰まりの状態にいるという感じが蔓延しています。日本の政治も経済も行き詰まっていると誰しも感じています。

実際、人々は言いようもない「閉塞感」にとらわれています。先行きの不安、出口が見えない行き詰まり状況にあるという意識です。「今年も暮れ行く。間もなく迎える新しい年に、私たちは、この息苦しいまでの閉塞感から抜け出す道を、どう見つければよいか」(読売新聞、2002年12月23日号より)。これはある新聞からの引用です。この言葉に多くの人は共感するのではないでしょうか。

このような閉塞状況に置かれている人々の心には不安と恐れが入り込み、容易には出ていこうとはしません。しかもしばしば人々は同時に強い孤独感を抱きます。種々の問題・困難に出会います。それにどう立ち向かったらよいのでしょうか。隣人との共感と連帯が難しい時代―わたしたちはおおむねこのような状況に置かれています。この状況で今年のクリスマスを祝うということはどのような意味があるのでしょうか。

先日ある人から聞いた話です。その人の長男は5歳のときにかかった病気が原因で重度の障害者になってしまいました。両親は考え得るあらゆる治療を受けさせました。ルルドにも巡礼し聖母へ取次ぎの祈りを捧げました。しかし障害は治りませんでした。

どうして! なぜ! この言葉が何度彼らの心に浮かんできたことでしょう。しかし、いま二人はこの事実を受け入れています。多くの人々が彼らの苦しみ、悲しみ、やるせなさを分かち合ってくれました。今も多くの人が彼らを支えてくれます。この人々の思いと助けは彼らの慰めであり励ましです。

わたしはこの話がクリスマスのメッセージに関係があるように感じました。

クリスマスはイエス・キリストの誕生祝です。救い主が生まれてくださったことを喜び祝う日です。キリストの誕生はわたしたちすべての人の誕生祝につながらなければクリスマスを祝うことにどんな意味があるでしょうか。

どうしてわたしはこの世に生を受けたのか? なぜ生まれてきたのか? 重度の障害に苦しむ人自身とその家族にとってこの問いは深刻です。

なぜ、という問いに対して、簡単にあるいは安易に神様を持ち出すべきではないでしょう。

人となられた神イエス・キリストは罪を除いてわたしたちと同じ人間となり、人間の惨めさをご自分のものとなさったのでした。これがわたしたちキリスト者の信仰の核心です。教会とは、イエスに倣って、喜び悲しみを分かち合う、人と人とのつながりであり、父なる神によって集められた神の民です。そして、わたしたちは、わたしたちの心に注がれて神の霊、聖霊の働きにより、イエスに倣って歩むことができるようになりました。

一人ひとりが互いに、お互いにあなたに会えてよかった、生まれてきたよかった、と喜び祝うことこそクリスマスを祝う意味ではないかと思います。

クリスマスをそのように祝うことができるためには毎日の小さな、しかし大切な努力が必要です。そしてその努力とは、自分から隣人の必要と苦しみに少しでも心を開くという努力です。

2002年のクリスマスにあたり、人となられた神主イエス・キリストの恵みがすべての人に行きわたりますよう心から祈ります。