教区の歴史

教区の歴史

東京教区年始の集いミサ(マルコ1・7-11)説教

2012年01月09日

2012年1月9日 東京カテドラルにて

昨日、主の公現を祝ったばかりですが、今日はそれから30年ほど飛んで、主の洗礼の出来事を記念しています。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマ」と言います。この言葉に本来は「洗う」という意味はなくて、水の中に「沈める」ことを表す言葉です。イエスは「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とありますが、直訳すると「ヨハネによってヨルダン川の中に沈められた」となります。実際、ヨハネの洗礼も、キリスト教の古代の洗礼も、額に水を注ぐのではなく、人の全身を水の中に沈める形で行われていました。それが意味していたのは「死と再生」ということでした。洗礼を死のイメージで語る典型的な箇所は、ローマ人への手紙の6章です。

「3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

洗礼のイメージは、水の中に沈み、いったん死んで、水から立ち上がる、すなわち、新しいいのちに生きる。キリスト教の洗礼はイエスと共に古い自分に死んで、イエスとともに新しいいのちに生きることを表すものです。洗礼者ヨハネの洗礼は、回心して、罪の自分に死んで、新しい生き方を始めることを意味していました。だから洗礼者ヨハネはイエスが自分のもとに来て、洗礼を受けようとしたのを見て驚くのですね。しかし、イエスは悔い改めるすべての人と連帯して、「罪のゆるしのための回心の洗礼」を受けられました。



さて、昨年の3月11日の東日本大震災の後の大津波。本当に悲惨な出来事でした。2万人の人を海の水が飲み込んでしまいました。

この津波と洗礼のイメージを重ね合わせてみるのがいいのかどうか、自信ありません。もしかしたら、すごく辛いものを感じてしまう方がいるかもしれません。しかし、10ヶ月が過ぎ、年が改まり、この苦難を経て新しいいのちへの希望を持とうとしているわたしたちは、この大津波と洗礼のイメージのつながりを大切にしてみてはどうかと思います。イエスは今日の福音の場面で水の中から立ち上がられ、聖霊に満たされ、神の子としての歩みを始められました。そのように被災者の皆さんが、そして被災者した方々に寄り添っていこうとするわたしたちが立ち上がって、神の子としての新しいいのちを力強く生きることができるようにと祈ります。イエスはわたしたちにともに立ち上がる力を与えてくださると信頼しながら、心を合わせて祈りたいと思います。

わたしたちは宗教者として、2万人の死者・行方不明者という現実を前にして、単に「不幸なこと。あってはならない、とんでもない悲しいことでしたね」というだけでは足りないと思います。「死をとおって新しいいのちへ」このメッセージをしっかりと心の中に持ちながら歩みたい。

正月にテレビを見ていたら、瀬戸内寂聴さんが被災地を回って説法している様子が伝えられていました。この方はもともと小説家でしたが、宗教の道に自分をかけようと思い、最初、カトリックのシスターになろうと思い、それが難しかったので天台宗の僧侶になった方ですね。彼女は津波で家族や親しい人を失った被災者たちに向かって、「人間は必ず死ぬんですよ。」というんです。そこからいのちの意味を考えようというんです。これをはっきりいえるのは宗教者だからですね。宗教者はこのことをはっきり言う務めがある。死の現実をしっかり見つめながら、それでも前向きに生きる力を与えるのが宗教の力です。人間にはどうしようもない限界がある。弱さがある。しかし、だからと言って人生は無意味なのではなく、わたしたちが死に直面するときも、わたしたちを導きつづける存在がある。わたしたちの人生に、人類の歴史に永遠の意味を与える方がおられる。わたしたちよりももっと大きな存在が、わたしたちのすべてを包んでいる。だから一瞬一瞬をこの神とのつながりの中に生きよう。だから絶望を超えて力強く歩んでいこう。そう呼びかけるのが宗教の役割なのです。

昨年はわたしなりに、被災地にかかわらせていただきました。特に福島との出会いはいろいろなことを考えさせられました。そして、今のこの時代、この状況だからこそ、宗教に大切な役割がある、と最近本気で考えています。



今年は第二バチカン公会議が始まって、50年という年です。教皇ベネディクト16世はこれを記念して、公会議が始まった10月11日から約1年間を「信仰年」とすることを宣言しました。「信仰」というテーマを抽象的に考えるのではなく、具体的に、この50年間、第二バチカン公会議の示した指針をわたしたちの教会がどう生きてきたのかを振り返る年にできたらよいと思います。50年前ってわたしは小学1年生でした。カトリック家庭ではないので、まったく関係ない世界で生きていた子どもでした。皆さんは? とにかく、今の教会のあり方をはっきりと方向づけたのが、第二バチカン公会議だったのです。
第二バチカン公会議が発表した最も重要な公文書の1つに『教会憲章』があります。この文書は欧米では”Lumen Gentium”と呼ばれています。「諸国民の光」という意味のラテン語です。この文書は「諸国民の光であるキリストは…」という文章から始まり、その最初の言葉が、全体のタイトルになっているんです。そしてこの”Lumen Gentium”「諸国民の光」という言葉に、『教会憲章』全体のテーマが示されているのです。つまり、2000年前に生きたイエス・キリストが真の意味で「諸国民の光」であったように、教会も救いの光、希望の光をもたらすものでありたい。20世紀の後半、教会は数十億の人類の中ある一部分でしかない、しかし、特別な使命を持った「神の民」だと自覚するようになりました。そして、この神の民である教会は、「すべての人の救いの道具として採用され、世の光、地の塩として全世界に派遣されている」(LG9)という意識を持つようになったのです。

でも、どうやって?どうやって、教会は人々にとっての光になれるのでしょうか。公会議が最後の発表した文書の1つが『現代世界憲章』でした。それはこういう言葉で始まります。

「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人や虐げられているすべての人の喜びと希望、悲しみと苦しみは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間に関することがらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」

大震災以来、「絆、傾聴、共感、寄り添う」ということがよく言われます。そのほんとうに大切な姿勢が、この現代世界憲章の冒頭によく表れています。わたしたちの教会が大震災以来、被災者支援の活動に力を入れ、原発の問題にかかわろうとしているのも、それが生きている人間の現実の問題だからです。わたしたちキリスト者は日本社会の中で小さな存在ですが、本当に人間の現実に向き合うところから、キリストの光をもたらすものになりたいと願っているのです。

最後の一言。この『現代世界憲章』冒頭の言葉も、この文書全体のタイトルとしてよく知られています。”Gaudium et Spes” すなわち「喜びと希望」です。現実の世界にはいろいろ悲惨なことがあり、問題も山積しています。しかし、わたしたちはキリスト者として、この世界を暗闇だとみるのではなく、この世界に「喜びと希望」を見いだしていきたいのです。わたしたちの教会のこの一年が、本当の意味で、喜びと希望の光を輝かす年になれますように。アーメン。