教区の歴史

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世界召命祈願の日  「わたしにできることは?」

2007年04月29日

・・・「カトリック新聞」2007年04月29日付(3905号)掲載

以前、あるカトリック学校の宗教科の先生たちの研修会に招かれました。そのころ、ある公立中学校で生徒が教師をナイフで刺して殺してしまったという事件が大きく報道されていました。宗教科の先生たちは皆、「わたしたちは子どもに何を伝えるべきか」ということを改めて問いかけられているのを感じていました。

「学校にナイフを持ってきてはいけない」「人を刺してはいけない」

もちろんそれはそうであっても、わたしたちが伝えようとしていることはそういうことではないのではないか。わたしたちの社会では「人に迷惑を掛けなければ何をしてもいい」というような風潮があるけれど、子どもたちに伝えるべきことは「好きなように生きればいい」ということではないはず。子どもたちは「どう生きればいいか」を本当に知りたがっているのではないか。わたしたちが伝えるべきことは「人は愛するために生きている」ということであるはずだ・・・そんな話になりました。そして「でもそれは言葉で伝わることではなく、親や教師の生き方をとおしてしか伝わらない」という発言に皆がうなずいていました。



消費社会と呼ばれるわたしたちの社会は「今・自分・目に見えるものだけ」の世界に陥っているのかもしれません。「今、自分が目に見えるどれだけのものを手に入れるか」これがこの社会の中で人々が追い求めてきたものです。今は歴史の中にあることを忘れて今さえ良ければいいと考えてしまう危険があります。今の生き方が過去の人々の積み重ねの上にあり、今の生き方が将来の人々に大きな影響を与えることを忘れるところに、地球の資源や環境の問題の根本的な原因があるのではないでしょうか。

自分と自分のグループの利益だけを追い求める傾向も強くあります。「自分や自分たち」はもっと多くの人とのつながりの中にあることを忘れ、どこかの誰かが飢えていても苦しんでいても、最低限のルールさえ守っていれば、自分たちは豊かな生活を楽しんでいいのだという考えに陥りがちです。

目に見えるものは目に見えないものにつながっていることを忘れ、目に見えるものをひたすら追い求める誘惑も強いでしょう。そして目に見える世界で挫折したり行き詰ったりすると、そこにはもう絶望しか残らないことになってしまうのです。

「今・自分・目に見えるもの」という世界は実は非常に狭い世界なのに、現代のわたしたちはそこに落ち込んでしまっているのではないでしょうか。そこから子どもたちに向かって「悪いことをしなければ何をしてもいいよ」というメッセージを発信してしまっているのではないでしょうか。そんな中で育つ子どもや若者たちが生きる意味や目的を見いだせないのは当然かもしれません。



今は歴史とつながっている。

自分はすべての人とつながっている。

目に見えるものは目に見えないものとつながっている。

そういう感覚を持ったときに、「ではわたしはどう生きたらよいのか」「わたしにできることは何か」が問われてくるのです。それがわたしたちの信仰の言葉でいう「ヴォケーション(召命、神に呼ばれること)」ということです。神はこのわたしに何を呼びかけているか、その神の呼びかけに応える道とは何なのか?

司祭職も修道生活も信徒としての生活も単なる自己実現のためにあるのではありません。自分の一回限りのいのちを自分のためだけに使うのではなく、みんなのために使う、人は誰かのために生きることによって、真に自分の人生を生きることができる、このことをもう一度わたしたちが真剣に受け取りなおすとき、教会における「召命」は必ず豊かになっていくはずです。