教区の歴史

教区の歴史

<これからの教会を考えよう>教会史から見る宣教司牧の共同体的性格

2001年06月16日

石井 健吾 (聖アントニオ神学院教授)
2001年6月16日

 

共同宣教司牧ということが日本の教会でも現実問題となりつつある。そのような実践方法は、しかし、全く新しいものなのだろうか。むしろ、宣教司牧の本質から来るものなのではないだろうか。 2000年にわたる教会史における宣教司牧の歩みとその共同性について教会史専門の石井健君神父に解説していただく。

 

そもそも教会の「宣教」、「司牧」はどのようにして始まったのか

ある意味で、今日の共同宣教司牧の原型はまさに初代教会の中に見ることができます。

 

(A)四福音書の場合

宣教は、派遣(ミッション)と使信(ケリグマ)として、師イエスと弟子たちの間に、共同体(コミュニティー)は、弟子たち相互の交わり(コイノニア)の中に、また、司牧(パストラル)は彼らの日常生活を支援する(デイアコニア)婦人たちとの間に、福音書の全体を通して見られます。

 

(B)使徒言行録の場合

この中で、宣教は、使徒職とその弟子、また彼らから受洗した信徒たちによって、地中海世界各地で行われたとあります。

また、司牧に関する記述は、使徒たちとその弟子の中から選ばれた人物が監督(司教)として、その地域を全権をもって司牧し、長老や助祭がそれを助けたとあります。彼らの生活は、家族的共同体を形成するもので、監督は家長、父親としてその上に立っていました。この共同体の特徴として、成員の相互扶助が挙げられます。具体例として、各自が自分の財産を(土地、家屋を売って)、自発的に持ち寄り、貧者や病人を助けたとあります(使徒4・32‐37)。また、助祭に関する記述は、共同の宣教司牧の土台が愛と奉仕であることを示します。

 

(C)司牧富簡と公同曽簡に見られる宣教司牧

(1)司牧書簡(1テモテ、2テモテ、テトスにあてた書簡)の中で、パウロは弟子の中から任命されたテモテとテトスの二人の監督に有害な異端的教えを警戒しイエスの真理のことばを忠実に守り、かつ教えるよう命じています。さらに監督、長老、助祭などの職務について詳しい注意を述べ、教会役職を強化して、内部からの崩壊を防ぐよう勧告しています。

(2)公同書簡(ヤコブ書、1、2ペトロ書、 1、2、3ヨハネ書、ユダ書の七書簡)

これらは個人ではなく、共同体にあてられたもので、内容は異端への警戒、迫害に対する信仰の確立、信徒の一致への勧めが書かれています。

全体的に見て、この時期にディアスポラのユダヤ系信徒が、名実共に共同体(パロキア)を作っています。リーダーと信徒の関係は牧者と羊、父親と子どものようで家族的きずなが強く、愛と奉仕の精神によって結ばれており、後世の共同体的宣教司牧の原型となるものと見られます。

 

司教、司祭、助祭という位階制度は宣教司牧の共同体的実践とどのような関係があるのか

 古代教会でのヒエラルキー(聖職位階)は、前述したように、人間の社会性に根ざしたもので、また信仰共同体の特色である正しい信仰の保持とその一致のために作られました。使徒たちは、まず信徒の生活を守るために奉仕者としての助祭職を、ついで共同体を秩序づけるためにリーダーとしての司教(監督)を設けました。これらは聖書的ヒエラルキーと呼ばれます。しかし、この共同体も人間社会の例にもれず、当初から自然発生的に集団をリードする長老たちの存在があり、その後に司教職を補佐する司祭たちが任命されました。この4階級が、それぞれの機能を発揮しながら共同性を作り上げていきます。

やがて、これの中心となる司教が、信徒を加えた共同体の中から選ばれていきます。その場合、助祭たちからの選出が多かったのです。したがって、5、6世紀まで、奉仕職を経験した人物が司教に任命されています。また、この司教が秘跡執行の中心的存在となり、各地の共同体を代表して、周辺の共同体と交流したり、信仰と道徳に関する会議に出席するようになりました(コイノニア)。

 

司教は、2世紀半ばには君主制(モナルキア)の頂点に立って、全権を握っていたことが、アンティオキアの聖イグナティオスの手紙からわかります。このような司教たちが集まって、各地で会議を開き、猛威を振るったグノーシスの異端から群れを守り、典礼や習慣についても合議しました。これがシノドス(司教会議、 160~170年)の始まりです。公会議には、帝国の秩序を図る皇帝の庇護のもとに帝国内の司教たちが集まって、以上の問題を論議し、教会全体の意志統一を図りました(315年、ニケアで最初の公会議)。

ヒエラルキーのもつ共同体的性格は史料で見る限り、司教の活躍に最もよく現れています。

(1)群れの先頭に立つ司牧者としては、前述の聖イグナティオスが挙げられ、福音の実践を説き、全責任を負って、殉教を辞さないタイプでした。ローマの司教たちは(聖ペトロの後継者、約30人)も、このタイプでの殉教によって、ローマ教会の位置を比類ないものとし、東西の教会から尊敬を受けるようにしました。

(2)聖ニコラス(サンタ・クロース)や聖バレンタインの場合は、その共同体のカリタス(慈愛)の業によって有名です。

(3)カッパドキアの2人の司教(聖パシレイオス、ニッサの聖グレゴリウス、ナジアンズスの聖グレゴリウス)の場合は、三位一体論の神学者で教父と仰がれましたが、助祭、司祭に加えて男女のボランティアを集めて修道共同体を作り、社会・福祉・教育事業を進める一方で、特に大パシレイオスは修道戒律や典礼(現在の第四奉献文の原型)を通して、共同体の霊性を確立しました。

(4)西方教会の学者タイプの司教団としては、ミラノの聖アンプロシウスとヒッポの聖アウグスティヌスの師弟があげられます。両者は司牧者のモブルの向上を図り、修道的規律のもとに、ヒエラルキーを構成する助祭、司祭との共住生活を行い、学問と祈りに励みました。また、その周辺に男女の修道者が宗教共同体を作っていました。

(5)ローマ司教の場合、大教皇と呼ばれる聖レオ一世と聖グレゴリウス一世は、世俗にあっては外交官や市長職を歴任しましたが、聖職者となってからは、神学者、教父、神秘家として優れた存在でした。この頃まで、司教はみなパパと呼ばれていましたが、レオ以来ローマ司教だけが、パパ(教皇)と仰がれようになりました。

グレゴリウスの場合は、新来のグルマン民族を改宗させ、 一大キリスト教共同体を作るため、ベネディクト会員を宣教師として各地に派遣し、「ヨーロッパの父」と呼ばれました。いってみれば、今日のヨーロッパ連合(EU)の精神的土台を造ったともいえます。

また、レオもグレゴリウスも司教同士の交わり(コイノニア)を重視し、拡大する教会の共同体としての発展に貢献しました。

 

そもそも、現在でも司牧の場である「小教区」はどのように形成されたのか

小教区を示すパロキァという用語は、すでに旧約聖書の中にあり、「外国からの居留者、その人たちの居留地」を示すものでした。新約聖書の中では、使徒たちが宣教の先々で、自分たちの後継者として、その町の1人の男性を選び、エピスコポス(監督・司教)に任命しました。この集団がパロキアと呼ばれるようになりまれた。ところで、信徒の数が増え、秘跡の執行(特に聖体祭儀)に手が回らなくなると、周辺の各地に礼拝所(普通の家屋)が造られ、そこに監督の代行として司祭たちが派遣されるようになり、やがてそこに司祭が常住するようになり、これがパロキアと呼ばれるようになり、その集合体が司教区(ディエチェシス)となりました。司教区と小教区の始まりはこのようなものでした。

ローマ帝国では、キリストの教会は、非合法な存在だったので、もちろん聖堂などは望むべくもなく、 一般の住居が礼拝所の役を果たしていましたが、313年に公認されると、帝国の行政区に倣って、大きな町に司教座が設置され、その領域内に多数の小教区が設定されました。

しかし、ゲルマン人のヨーロッパ侵人によって、各地の聖堂が破壊され、その復旧が不可能となったので、土地の領主たちがそれを建て直し、自分の家来を司牧管理者に任命するようになり、その土地の司教との間に紛争が起こりました。この俗人領主の設立した聖堂と小教区を私有教会(アイゲンキルヒェ)と呼んでいました。

この両者の争いの中で、小教区民の帰属や維持費としての十分の一税の納入をめぐって教会は揺れ動き、ついに「信徒は必ず一定の小教区に所属する」という規定が出されました。この時期、今日の小教区制度の土台ともいうべき、一定の区域」と「その場からの収入」という原則が生まれるのです。

後にゲルマン民族を統一し、ローマ帝国に代わるキリスト教ヨーロッパ帝国を造るカール大帝は、帝国の秩序を考え、教会との共存のため、この司教区と小教区を制度化していくのに尽力しました。ですから、今日の小教区のあり方は、中世初期(4~8世紀ごろ)にさかのぼると考えられます。

 

修道院制度は、宣教司牧の発展にどのような役割を果たしたか

確かに、修道共同体、特にベネディクト会が共同体的宣教司牧を行い、それも理想的な宣教共同体であったことは、今まで無視されてきました。わたしの見るところでは、コーロッパ・キリスト教共同体の土台は、彼らによって、据えられたと言っても過言ではありません。前述の聖グレゴリウス教皇が、ローマの自宅をベネディクト会会員にゆだねて修道院にしたうえで、自身も修道者として生活し、そこから教皇庁に通ったのは、有名な話です。

その彼が、ベネディクト会員をヨーロッパの未開の地に派遣して、ゲルマン民族のキリスト教化に尽くしたのでした。特に、アングロ人の改宗のために、49人の同会員をイングランドに送り込んだのは有名な話です。そして、アイルランド、イングランドから逆に大陸に多数の宣教者(コロンバン、ボニファチウス)が来て、各地に修道院を建て、宣教拠点にしたものです。

この修道院(50~100名の会員から成る)の周辺にゲルマン人たちが集まり、遊牧生活から農耕社会への転換がなされ、耕作(カルチャー)を通して、ギリシャ・ローマ文明へと開化され、キリスト教を信奉するようになりました。中世期には、このような大修道院が2000から3000も建てられたようです。

一方、フランク王たちも、この成果に気づき、修道者たちに援助も惜しみませんでした。しかし、800年にヨーロッパ・キリスト教帝国ができると、皇帝や王は、競って司教を貴族や領主に取り立て、こうして司教区も小教区も行政区の中に組み込まれていき、ここにゲルマン人的封建的小教区が司牧のセンターとなっていきます。つまり、この時期、ヨーロッパでは、「宣教」は、個人から団体(修道院)によって行われるものとなり、司教区や小教区は「司牧」に専念するものとなりました。

ベネディクト会ではまた、清貧をめぐる論議の中で、クリュニーやシトーの改革運動が起こり、それによって未開の地への宣教が並行して、キリスト教の領域はさらに拡大を続けました。12世紀には、アウグスチノ会とシトー会に倣って、聖ノルベルトによってプレモントレ会が創立されましたが、彼らは司祭の共住と共同生活によって、ヨーロッパ的な共同宣教司牧を作り上げました。

 

中世末期から宗教改革の中にも、共同体的な自一教司牧の発想はなかったか

13世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ・ゲルマン社会は、大きな転換期を迎えていました。それは、農業の発展による経済力の増大によって各地で都市化が進み、十字軍という海外遠征を支えるほどでした。この都市化は、教会にも大きなインパタトを与えました。今まで眼に一丁字のない農民の司牧をしていれば

事足りた司察たちは、「読み書きそろばん」のできる羊たちの世話をすることになったのです。

インテリ市民という信徒の出現は、彼らが自由に聖書に接することで、福音の内容と、聖職者たちのあまりにも世俗的生活、特に華美やぜいたくに流れた生活との違いに疑間を抱かせ、市民たちの間で教会改革の運動が始まったのです。彼らは最終的にヒエラルキーとその教役に反対する方向に走り出しました。

それは、今までの司教や神学者による異端とは違う、市民・信徒による集団的異端でした。教会は根底から揺さぶられ、教皇・司教団は、その対策に苦しみました。ところが、この分裂に待ったをかける「共同性」

を具現する集団が現れました。ドミニコ会とフランシスコ会という、それまでの大修道院制の修道生活とは

異なる、都市型の、名実ともに宣教・司牧共同体が登場してきたのです。

ドミニコ会は、司祭集団で聖トマス・アクイナスのような神学者を擁して、学理的にこの異端に対処し、フランシスコ会は、その使徒的・福音的貧しさの実践で異端者に接し、「兄弟的生活」によって、彼らの中に入っていきました。被らの生活に感動した、 一般市民が第三会を結成することで、ヨーロッパの共同体的な宣教司牧の新しい動きが誕生するのです。

彼らは、福音的に生きたアシジの聖フランシスコに倣って武器を携帯せず、誓約を忌避し、公職への就任を拒否することで、原始的教会の生き方を追及しました。しかし、 一方で、生産の大部分を占める農民の住む地方では、世俗領主の支配する封建制の中に組み込まれたヒエラルキーと農民信徒の間では「教える教会」と「働き、従うだけの教会」という悲劇的な分裂がありました。

 

日本での「布教・司牧」や「小教区」はどのように成立したのか

 

(A)キリシタン時代(1549~1630ごろ)

キリジタンの時代では、近世ヨーロッパのルネッサンスの影響下にある、新しい修道会、イエズス会がポルトガルの援助のもとに来日し、 一人の修道司祭が、布教と司牧を兼務しました。戦国期から安土・桃山・徳川初期を通して、ほぼ80年間に約180人のイエズス会員が来日し、主にシモ(長崎、島原、天草、豊前)とカミ(京都。大阪周辺)で活躍し、1500人余りの日本人が彼らの教役を助けました(「同宿」、「看坊」、「小者」)。

「布教」は、当時のヨーロッパの最新の技術が持ち込まれ、中でも活版印刷は目を見張るもので、多数の邦訳が出版されました。受洗者にとって、最大のプレゼントは、「ドチリナ・キリンタン」(公教要理)の翻訳で、これは宣教史の中で特筆すべきものです。

「司牧」は、その当時のヨーロッパのスタイルが使われましたが、信徒側もそれに順応したのが、大きな改宗の実を上げた理由かと考えられます。宣教の最終目的といわれる、現地邦人の司祭養成と聖職者団の育成、邦人司教による司牧の問題は、当時の日本の現状の複雑きのため思ったほどの効果は上がりませんでした。

 

(B)第二次宣教の時期(1860~)

日本の開国に始まる、 1860年代のフランス人による宣教・司牧は、修道者ではない、宣教学に習熟じたプロの聖職者団によるものです。宣教は日本全土に及び、司牧はガリカニズム(近世フランスの国家主導型教会)の中で確立された、フランス型小教区のタイプが特徴です。

布教の近代化を唱えるローマ教皇庁の指導のもと、邦人司祭の養成のための神学校が創設される一方で、司察たちのヨーロッパ派遣・留学が進められ、邦人司教によるヒエラルキーの確立が急がれました。

大正時代に入って、各国からイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会をはじめ男女の修道会が続々と来日し、教育・福祉。社会事業を始めることで宣教面が大きく前進しました。これらの修道的共同体が、日本宣教の拠点とし改宗の実を上げたことは否定できません。そして、昭和期に入って、国際関係の悪化の中で司教の邦人化が急がれ、現在の16司教区の誕生を見たのです。

日本の布教・司牧、またその要となる「小教区司祭」のあり方を見るとき、各時代にそれにかかわった修道者・宣教師・教区司祭の育った時代の風潮や出身地の文化・習慣にいかに大きく影響されていたかがわかります。しかし、2000年の教会史の流れの中で見るとき、この国の教会史は、前期の80年、後期の140年の2世紀足らずでしかなく、宣教・司牧の土台となる日本人キリスト者の霊性の確立のため、各国、各民族の例を待つまでもなく、かなりの時間が必要であることは論を待ちません。

 

これからの共同宣教司牧のために

今、2000年の教会史を振り返ってみるとき、その最初から「共同宣教司牧」の精神は、各時代と地域のニーズに合わせて、さまざまな組織と制度(小教区・司教団区制、教皇制、修道制など)を生み出してきたことがわかります。

しかし、最初の精神が忘れ去られ、その外枠となる制度だけが温存され、後世の人々に重荷と感じられるようになったのは残念としか言いようがありません。この制度の刷新に当たって、第ニバチカン公会議は、教会共同体のあり方を見直し、教役者と信徒それぞれの役割分担と協力、教会を一つの家とする意識(オイコノミア)と各メンバーの兄弟性の自覚を強調しています。わたしの見るところ、この公会議の指針こそが、各時代に現れた共同体的宣教司牧の精神を一層具体化し、今日的にこれを実現可能にし、教会共同体を活性化させる最上の方策と思われます。

 

(いしい・けんご)