<これからの教会を考えよう> 教会の使命とは

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ペトロ岡田武夫 (東京大司教)
2001年6月2日

東京教区は、大変大きな変革のときを迎えています。変革をしなければならない状況であると認識しております。

2001年の私の新年のメッセージで皆様にお伝えしましたが、東京教区では、前任者の白柳枢機卿様、森司教様を中心に、何が問題か、東京教区の現状を検討しました。小教区がこのままでは行き詰まってしまう、行き詰まっている、何とかしなければならないという状況、緊急な問題だと司教、司祭が認識したわけです。私はそういう状況で昨年9月東京教区にまいりまして、ご一緒に歩んで行くことになりました。.

それで、これから、どうしたらよいのか、ということを一緒に考えていかなければならないわけです。この生涯養成講座ですが、私もこの企画に参加して、どういう内容で、この講座を進めたらいいかということを相談しました。教会をこれからどのように変えていったらいいか、ということを一緒に考え、学ぶ、そういう勉強会にしたいということを考えたわけです。

何回かにわたって、そういう講座を開こうと、いろんな方にお願いしました。私も全部の講座に出たいと希望していますが。

皆様に配布いたしましたプリントに、「これからの教会を考えよう~教会の使命とは」というタイトルを付けましたが、教会をどのように変えたらいいか、ということですが、「教会」というのは、何なのか、どういう使命を持っているのか。

「教会」とは、ご存じと思いますが、知っている内容が、人によって違うと思います。私は、日々「教会」とは何かと考え、少しずつ深め、新たにしている毎日です。そこで、改めて「教会」とは何か考えてみたいと思います。今、どういう問題があるのか、どうしたらいいのか、ということを話して、最終 回は、皆さんとこれからの教会はどうしたらいいのか考える、というのが全体の構成です。

今日の私の話ですが、3つの部類に分かれ、(1)「2001年を迎えて」(2)「わたしたちの課題」、 それから、(3)「聖書・ならびに公文書の資料から」をお話しするときに、参照すべき聖書 、ならびに公文書の箇所、引用を載せています。聖書をお持ちの方は、2ページの引用箇所を入れておいた方がいいですね。

・ルカ 4、16~21(貧しい人への福音)

・ルカ9、10~17 (5つのパンと2匹の魚)

・ヨハネ15、12~17 (互いに愛し合いなさい)

・ヨハネ20、19~23 (弟子の派遣)の箇所を分かち合いたいと思います。

 

「公文書」ですが非常に大切だと思う箇所、今日、私がお伝えしたいと思う箇所を挙げています。

公会議の文書はたくさんありますが、「教会とは何か」を学ぶためには、「教会憲章」、「宣教教令」教会の宣教活動に関する教令。それから「現代世界憲章」です、冒頭の有名な文書です。それから、教皇パウロ6世の「使徒的勧告」(1975年)、日本では「福音宣教」という題名で発表されました。(「エヴァンジェリ・ヌンティアンディ」)

それから、日本の教会の公式文書から「宣言」というのは(私は、着座式の時にも引用しましたが)、1987年、NICE-Ⅰ(第一回福音宣教推進全国会議)のとき、参加者一同が出した文書です。これは大切だと考えましていろんな機会に引用しています。

それから「ともに喜びをもって生きよう」第一回福音宣教推進全国会議のときに司教たちが出した公文書です。

第二回福音宣教推進全国会議のときに出した司教団文書が「家庭と宣教」です。

その次にありますのが「21世紀の福音宣教への第一歩」(大司教文書案)、まだ出ていませんが。原稿の一部を今日のためにプリントしました。これが正式の文書になるかどうか決まっていません、ご了解ください。

 

 

 

【1】 2001年を迎えて

 

(1)教会の使命はイエス・キリストの使命

 

昨年、2000年という大聖年を過ごした私たちは、21世紀を迎え、教会も新たな福音宣教の時代に入ったと思います。これから、教会はどうやっていかなければならないかは、一人ひとりが考えなければならない大きな課題です。

教会とは何であるか、どういう使命を持っているのか考えなければならないと思います。一番最初にしっかりと心すべきこと、確認すべきことは、教会の使命は、キリストの使命と切り離して考えることはできないのではないか。教会の使命はイエス・キリストがいただいたんですね。イエス・キリストにおいて設立されました。キリストから使命をいただいています。ですから、イエス・キリストと全く別に教会とは、教会の使命とはなにか、を考えることはできません。

そこで、教会論ですが、それはキリスト論と結びついています。キリストを見る、キリストに従うことが、教会とは何か、教会はどう変わらなければならないか、どのように歩んでいかねばならないかを考える基準になります。それ以外に基準はないです。イエス・キリストが中心だと言わなければなりません。

(2)イエス・キリストの使命

 イエス・キリストの使命、これは、聖書全体からイエス・キリストは誰か、何のために来られたか、使命は何かを語っているわけです。私たちは、聖書を学びながらイエス・キリストは誰か、何のために来られたかということを深く知らなければならない。

 

(3)ナザレの会堂で

そこで、ルカ4章16節からですが、よくご存じの箇所です。いわゆる公生活の場面です。昨年9月3日、私の着座式のとき、「聖書の箇所はどうしますか」と聞かれたときに、私はここを選びました。

 

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主が私に油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を

目の見えない人に視力の回復を告げ

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

「主の恵みの年」昨年は大聖年でしたので、ふさわしい言葉でして、私たちの心に深く記されていました。

イエスは、自分自身の使命をどのように自覚していたか、ここに表れていると思います。「貧しい人に福音を告げ知らせる」ということが、自分の使命である、「私は主の霊を受けている。油注がれた者=キリストである」という自覚を持っておられた。

さらに言います。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 

解放を告げる」「視力の解放を告げる」「自由をもたらす」という言葉で言われております「メシアの使命」、これは、今の私たちにとってどういうことを具体的に意味するのでしょうか。文字通り、目の見えない人が見えるようになる、ということでも言っているでしょうが、解放、回復、自由、をもたらすという使命は私たちが主イエスから受け継いだ使命でもあると思います。

 

(4)預言者・王・祭司であるキリスト

ルカ4章の箇所はそれで済むことではありませんが、ひとまず置きまして、少し聖書の文脈から離れてしまいます。

第二バチカン公会議の教会憲章などで言われていますが、旧約聖書に出てくる重要な役割、3つありますね。「預言者」「王」「祭司」という役割です。ナザレのイエスは一人で完全に3つの役割を統合され、完成された方ですね。「預言者」、神の言葉を預かる人、イザヤ、エレミヤなどの預言者ですね。それから、「王」神のみこころを地上において実現する人。弱い人、虐げられている人のために働く役割を担う人。「祭司」神と人の仲介者として神の言葉を説明して、典礼をささげ、祭儀を執行する祭司の役割。この3つの役割を一人のキリストが統合されたというように考えることができます。

 

(5)聖霊降臨と使徒の教会

そして、次は「聖霊降臨」ですが、聖霊降臨によって私たちの教会が公式に誕生した、人々の前に目に見える形で教会が表れた、と教会憲章で言っています。

聖霊降臨の時が教会の誕生であり、キリストの弟子たち、使徒から成り立っている、使徒の教会であるということですね。

「使徒」というのは「派遣された者」という意味です。イエスはご自身の使命を使徒たちに委託された。「貧しい人に福音を告げ、捕らわれ人に解放をもたらす」という良い知らせ、良い便りを告げ知らせる役割。そして、旧約聖書の預言者、祭司の役割を、新約の教会で行う役割を使徒たちに託された。その際に聖霊の派遣によって、使徒たちの派遣を行った。使徒たちに聖霊を注ぐことと、教会の誕生が同時であった。使徒言行録では、マリア様を中心に12使徒たちが10日間お祈りをして、昇天から10日目に聖霊が天から火の形をして降りて来た、となっています。それが「聖霊降臨」です。

ヨハネの福音はまた興味深い、神秘的な体験を述べています。ヨハネ福音書20 章19節から23節ですが、これは「ヨハネの聖霊降臨」と言います。イエス様が 復活して、50日目がペンテコステ=50日祭。そして、40日間ご復活されたイ エスがご出現されたということで、40日目が昇天祭になっています。ちょっと時 間が違ってきます。

 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

イエスは、自分が父から派遣された者として自覚していた。その派遣というのは主の霊と一緒だ。「主の霊は私と共にいる」と。それがナザレの会堂での第一声でした。

今度は、ご自分が弟子たちを派遣する場面で、「父がわたしを遣わしたように、今度はわたしがあなたがたを遣わす」そして、遣わすときに、聖霊と一緒に遣わす。その聖霊は「罪の赦しを与える、告げ知らせる力を伴う」と言います。教会の誕生、弟子たちの派遣は聖霊の派遣と同時に行われ、そして、それは罪の赦しをもたらす働きとして行われた。ここが大切だと思います。教会は、一人ひとりの罪の赦しを告げ、もたらすという使命をイエス様からいただいている。そのイエスは天の父から遣わされた者であり、父によるイエスの派遣。そして、イエスによる弟子の派遣には、いつも聖霊が一緒についてくるということで、教会は「父と子と聖霊によって派遣された神の民」ということができます。

教会とは何か、という教会論という難しい議論があって、1年間かかってやるようなことですが、今はそんなことをするのではなく、私たちはこれから教会をどうしていかなければならないかということを考える出発点になるような教えをもう一度考えようということですね。

 

(6)教会はキリスト?神の国は教会に来ている?

 教会は聖霊降臨で誕生し、イエス・キリストは弟子たちに聖霊の派遣と一緒にご自分がなすべき義務、使命をわれわれに伝えた。ですから、教会はキリストの使命を受け継いだ。しかし、教会とキリストは同じではないですね。教会についての教えで、「教会はキリストの神秘体」と。パウロの 1コリントの教会の手紙6・15でも「キリストの体」という教えがあります。キリストそのものではないですが、キリストの働きをするものとして造られている。キリストを表す者として期待されている、キリストの働きをしなければならない。

そして、もう一つ大切なことは、キリストの福音というのは、別の言葉で「神の国の福音」と言いますね。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)「神の国」というのは、神の支配、神の御心が行われているという状態ですが、イエス・キリストが来られたときに、そこに神の国が来た。イエス・キリストは完全に神の国、イエス・キリストは父の御心を100%生きられた方ですね。我々はそうはいかないですね。何パーセントか計算出来ませんが。常に神の国は来ているんですが、完成していない。教会は神の国が来ていることを示すものであるべきものですが、なかなかそう成りきれない、そこが面白いところですね(面白がっていてはいけませんが)微妙な、と言いますか、すばらしいという意味で面白いと思います。

「教会」は神の国ではないんですね、我々はいやというほど知っていますが。神の御心が行われていないことが目について仕様がない。自分自身がそうなんですね。御心に十分応えていない。でも、応えている部分もある。お互いに見ていますね。あの人はすばらしいな、あの人を見ていると、神様はいらっしゃるな、と思うということがありますね。だけど、どうしてこの人、教会にいる のだろう(笑い)と思ったり。司教なんて、神父なんて・・・なかなか申し訳ないのですが。

我々の教会は、「一、聖、公、使徒継承の教会を信じ」と信仰宣言で言いますが、「聖なる教会」と言いますが、聖人がたくさんいるのですね、今の教皇様は特に聖人をお造りになって、我々の教会は聖なる教会ですね。だけど、聖でない部分が目立ってしまう。聖というのはどういうことかと思いますが、私たちの教会の起源は遡ると、「父と子と聖霊」にあって、神さまお一人が聖であって、我々はその聖であることにあやかっている、聖霊の賜物にあずかって、聖性の恩寵をいただいて、神の命に預かっているその限りにおいて聖なる者なんですね。だけど、悲しいかなまだ贖われていない。外の人を見ても躓いてしまう。我々はどっちを見るか、まだ贖われていない部分を見て、お互いを非難し合うのか。それとも、それはそうだけれども、やはり神が造ってくださった人間、そして、イエス・キリストの十字架によって贖われ、復活の光を受けた人間、私の兄弟、姉妹が輝いている(眩しくて見ていられない、ということではなく)、どちらかだと思いますが、もちろん後者でなければいけない。あら捜しをしていたらきりがない。

 

 

(7)教会の改革と第二バチカン公会議

神の国は来ている、しかし完成していない。教会はなかなかうまくいかない。堕落したり失敗したりします。だから何度も改革しなければならない。第二バチカン公会議が最後でしたが、カトリック教会は何度も公会議を開いて改革してまいりました。

日本の教会といたしましては、第二バチカン公会議が1962年から65年です。これは我々の人生の中でも多くの方が体験しました。まだ40年くらいしか経っていませんが。

(8)NICE-I、NICE-II

 

そのあと、私たちカトリック教会としましては、各教区で公会議の精神で改革・刷新をしてまいりました。司教協議会では、司教たちが力を合わせて改革・刷新をしてまいりました。お陰でNICE-Ⅰが1987年、NICE-Ⅱは1993年に開かれました。

東京教区としましても、NICEというのはどうなのかについて、総決算というようなことをしなければならないのではないかと考えています。

今、私たちは東京教区として、教会の現状を見て、何が問題なのかをよく見て、問題を克服し、イエス・キリストが望まれるような教会にするために力を合わせてやっていかなければならないと考えています。

 

【2】 わたしたちの課題

=いま、ここでイエス・キリストの望みを行うこと

「主イエスよ、わたしたちに何をお望みですか」

 

私たちはこれからどうしたらよいか。2001年の今、イエス・キリストから派遣された私たちは何を行わなければならないでしょうか。「主イエスよ、わたしたちに何をお望みですか」という祈りと共に考えていきたいと思います。

 

 

(1)福音を述べ伝える

教会の使命はいろんな言葉で表現できますが、一番よく使われる一般的な言葉は「福音宣教」ですね(昔は「布教」と言いました)。これは1975年のパウロ6世教皇の「福音宣教」という教えによって確立されました。福音を宣べ伝える。

福音を宣べ伝える、という中には、よい便り、という言葉で表し伝える、ということと共に、私たちの毎日の生活、仕事がイエス・キリストの福音を表し、伝えるものでなければならない。この世界を神の国の到来のしるしとなるように、神の国が来ていることを表すような状態に変えていく努力が福音宣教であるということが1975年の「福音宣教=エヴァンジェリ・ヌンティアンディ」という教えで強調されています。

福音=喜びのたより、なぜ、喜びの便りなのか、どのようにそれが救いの訪れであるのかということを私たち自身が自分で信じ、表し、伝えていくものでなければならない。私たちが本当にイエス・キリストの便りを福音として受け取っているか。どういうふうに私たちがそれを説明できるか。「福音」というのは「喜びの便り」ということです。それが問われているように思います。私にとってどういう意味で福音であるか、ということだと思います。

 

 

(2)貧しい人に福音を述べ伝える

「貧しい人」というのは誰なんでしょうか。私は貧しい人でしょうか。私は貧しい人ではないけれど、貧しい人がいるから貧しい人に福音を述べ伝えよう、ということでしょうか。イエスは山上の垂訓で「心の貧しい人々は、幸い」(マタイ5・3)(ルカでは「心」がとられて、「貧しい人々は、幸い」-6・20)

「貧しい人は幸い」あるいは「心の貧しい人は、幸い」というのはどういうことでしょうか。また、どのように受け止めているでしょうか。他方、この世界の貧しさをなくすための努力が問われていると思います。

「貧しい人は、幸い」とイエスは言われました。イエスは、貧しい人に向けて派遣されている。貧しい人のところに行かなければならない、貧しい人を優先しなければならない。イエスの生涯は貧しい人を優先させた。私たちはなすべきことはたくさんあるが、どういう順で行動を選択しているのか。限られた時間、限られた能力しかありませんので、選択しなければならないのですが、そのときに、個人として教会として、貧しい人に向けて、私たちは貧しい人を優先させて教会のあり方を示しているだろうか、ということですね。

プリントに「神の愛を受ける人は幸い」と書きました。「貧しい人」は旧約聖書以来「残りの人」という言い方があります。神に愛された、神が特別に愛を注ぐ人、そして、イエス自身が貧しい人となって、貧しい人として生きられた。

 

公会議文書を引用しましたが、

 

神の子は人々を神性に与からせるために、真の受肉の道を歩み、自分の貧しさによってわれわれを富ませるために、富んだものでありながらわれわれのために貧しいものとなったのである。人の子が来たのは、奉仕されるためではなく、奉仕するためであり、多くの人、すなわち、すべての人のあがないとして、自分の命を捨てるためである」(「教会の宣教活動に関する教令」3)

 

神のひとり子、神と等しい方、神性と人性が位格的結合で結びついていて、一つのペルソナに二つの本性、という言い方でカトリック教会はキリストを理解しようとしていますが、難しいですね。

私たちと同じ人間となり、人間として貧しさを生きられた。私たち人間は限りがあって弱い者、人間の栄光と悲惨というのをつくづくと感じます。私たちは神の作品ですから、神の栄光を表す のですが、同時に、動物にはない人間の悲惨があるんですね。つまるところ、イエスの十字架は人間の悲惨さ、惨めさを避けないどころか、ご自身が受け取られた、ということですね。これが考えても考えても驚くべきことですが。教会がこのイエスの使命を生きるものであれば、十字架の極みまで従われたイエスのように、人類の悲惨さを自分のものとして引き受けて歩んで 「かなければならないのではないか。私たち自身、貧しい者として、貧しい人とともに歩んでいくのが教会なのではないか。

教会のイメージには、伝統の教会のイメージと、貧しい人々の教会のイメージと両方あるんですね。

私の紋章の図柄ですが、「信、望、愛」、ラテン語で「フィデス、スペス、カリタス」と書いてあります。スペスのところにある絵は、2匹の魚と5のパンで(ルカ9章10蠇17節)、これをどうしてここに入れたのかというと、半分は偶然なんです。私が東京の大司教になるというので、「紋章をどうしようか?」と言われ、「誰か作ってよ」「自分で考えてくださいよ」(笑い)モットーは浦和の司教になったときのモットー、「主に望みをおく人」、わたしはこれでいきます、と。でも、図案の方は、ちょうど悩んでいたときに、日曜日の福音がこれだったんです、「5つのパンと2匹の魚」の福音の日が回ってきたんです。それが一つ。

もう一つは教皇様のおことばです。説教の中で、

「今年の四旬節第一主日、教皇ヨハネ・パウロ二世は、和解と回心のミサをささげた時、その中で、教会の罪の告白を行い、主に向かって罪の赦しを求められました。教会として犯した罪の中には、基本的人権の侵害、真理への奉仕において暴力に訴えたこと、女性の尊厳を侵害したことなどが含まれています。この告白は実に謙虚でかつ勇敢な行為です。私はこの教皇に倣いたいと思っています。」と申し上げたわけです。

人によっては、いや、教皇は「教会の中には不心得者がいた、それは残念だ。自分のことではないし、教会の司教とか教皇ではなく、教会の中にはいろんな人がいるからこういう間違いも犯した人もいる」ということを言った、教会が間違ったと言っていない、と言う人がいますが、私は、たとえそうであっても、そういう教会を、指導者は責任があるので、実際に今、聖人として列聖されている人でも、当時の通常の考え方に従って、今から思えば理解し難いことをしていた。たとえば十字軍もそうですね。聖ベルナルドという有名な聖人は、私の記憶では、十字軍をおこすようにというメッセージを説いて回った人ですが、聖人、ということでしょう。

「5つのパンと2匹の魚」ですが、イエスの周りには多くの人が集まっていた。貧しい人、病気の人など大勢の群衆がイエス様のことばに聞きほれていたが、日が暮れて皆空腹になった。5千人の人が集まっていて、食べる物は5つのパンと2匹の魚しかなかった、というお話です。これが「教会」ではないか、と私は思った、心に閃いたんです。私の独断ですが、これは私の紋章ですから、自己主張ですが・・。教会は本来貧しい人が集まって、わずかしかないんだけれども、それを皆で分かち合っているんです。皆、間違ったことをした人ばかりが集まっている。あっちでも失敗して、こっちでもうまく行かなかった、後ろゆび指されている人、そういう人でもちゃんと居場所がある。そして、何もないんだけれども、皆で分かち合うことによって恵みが広がっていく、そういう団体としてもう一回見なおした方がいいのではないか。一般の人が集まって、入会の資格がある人だけが大きな顔をしていられるのではなく、そこに達することができない哀れな、失敗ばかりしている人が入れない団体ではない。聖書を見てもそうです。12使徒の一人は裏切ったし、いや一人だけでなく、皆裏切ったわけですね。ですから、考え違いしている。段々教会は大きな顔をするようになった。体制の教会、勝利の教会になって、ローマ帝国で国教となりました。

ですから、教会というもののイメージですが、これからどういう教会として私たちは成長していきたいかということですが、私は5つのパンと2匹の魚というもので表されると思います。 

 

(3)わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい

更にイエスの言われた、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、愛し合うということは、貧しさを分かち合うということがあると思います。我々は貧しい者なんです。貧しい中で、貧しさを分かち合うという、それはイエス・キリストが神と等しいことを良しとされないで、私たちの兄弟となってくださった、ご託身の精神でもあると思います。

 

(4)神の民のネットワークをつくる、ネットワークを広げる

貧しさを分かち合うネットワークが教会にあり、そのための小さな共同体が育っていかなければならないと思います。

 

(5)父がわたしを遣わしたようにわたしはあなたがたを遣わす

私たちは「父がわたしを遣わし たようにわたしはあなたがたを遣わす」と言われ派遣されています。「派遣」はラテン語でミッショ(英語のミッション)。派遣というのは「宣教」とも「使命」とも訳されます。

第1回NICEでは「開かれた教会」ということを掲げましたが、開かれた教会というのは単に、外からアクセスしやすいということだけでなく、こちらから出ていく教会という意味も含まれていると思います。私たちはすでに、この社会に派遣されている。日本の現実では、非キリスト教的なあるいは非常に世俗的な社会の中で生きている。この社会の中で、イエス・キリストを生きる者として派遣されている、これだけでも大変なことです。私たちが派遣されている者同士の連帯がなければ派遣されて、使命を遂行することは困難です。そこに教会の役割があると思います。

 

 

(6)派遣されている信徒を支え励ます共同体

「小教区」という言葉は英語では「パリシュ」と言いますね。ラテン語では「パロキア」 、語源を調べてもらったことがありますが、この生涯養成講座の中で他の神父様の説明があると思いますが、そのときにしっかりと確かめてください。

「小教区」の語源は旅先にある旅行者共同体、というかな・・。こういうイメージです。我々は寄留者、寄留民である。今旅行しているんです。本国から離れ、異国を旅行しておりまして、行く先々で集まって、そこで励まし合い、助け合って、またどこかに行く、という寄留民のよるべとなる場所とグループが「小教区」という起こりだと聞いています。

第二バチカン公会議が旅する教会、と言っていますが、私たちは神から出て神へ帰る旅行をしていますので、旅先で、助け合わなければいけないんですね。その助け合いのネットワークというものが教会であり、小教区である。そこに信徒の組織があり、典礼がある。

だから、私たちが旅先にある寄留民として、互いに支え合い、助け合う教会になっているかどうか、どういう点でそれが邪魔になっているのかということを考えなければならないのではないかと思います。

 

(7)社会に対する教会の責任

教会の責任の中で、預言者の役割があります。それは社会の動き、世界の動きの中で、神のみこころを代弁するという役割で、神のみこころに背く動きがあるときに、警告したり、行くべき方向を示す役割があります。

教皇様は「紀元2000年の到来」という使徒的勧告の中で、教会は預言者の役割を果たせなかったという反省をしています。20世紀は大変不幸な戦争のあった世紀、数えきれないほど多くの人が戦争で倒れました。人権侵害、虐殺が目立つ世紀であった。教会はそういう現実の中で、神さまのみこころを指し示す役割をどう行ったのか反省しなければならないと言っておられます。

 

 

(8)互いに分断された閉鎖社会からの脱皮

最後に教会がどういうふうに変わっていかなければならないかを考えるために、私たちが、兄弟姉妹として横につながっていなければならないのではないか、ということを痛感しています。カトリック教会は、縦の関係、組織はよくできているんです。教区があって、小教区があって、教区と小教区に分割していて、教区長が小教区長を任命するわけです。小教区長は主任司祭。司教から委託されて、自分の任された範囲のことは全責任をもって行う。その人に任されていて、隣の小教区長は司教から任されて責任をもって行う。横につながっているのは難しいです。司教に対して責任を持っていますからね。司教は、ローマから任命されている。任命された人に責任を負う。

教会というのは貧しい人に派遣されている。貧しい人、苦しんでいる人、悩んでいる人に遣わされている。そういう人の思いを聞き、彼らと苦しみを共にし、神がおられる、神があなたのことを大切に思っている、ということを体で話していくために我々はいるんですね。だけど、自分を任命している人を見なければならないし、自分のことが第一なので、隣の人のことをとやかくいうことよりも、自分のことをしっかりとやると。だから、自分の方にも手を出すな、ということで、分割されています。

そして、それぞれの教会の群れを、何々教会、自分たちの神父は何々神父様、と自分のことが第一になってしまいます。そういうことでいいのだろうか。もっと広く目を外に向け、横のつながりをよくしていかなければならないと痛感しているわけです。

 

【3】 公会議文書から

パウロ六世の「エヴァンジェリィ・ヌンティアンディ」の引用ですが、「教会はイエスの現存、イエスの別離と恒久的現存のしるしとして 、時にはほの暗く時には輝かしいしるしとしてとどまっています。教会はイエスを延長させ継続させます。実際何よりもそうしてこそ、教会は自分で自分の使命をはたしている、と言えるし、また福音宣教者である、とも言えるのです。」

これですが、イエス様は復活され弟子たちに現れ、帰って行かれ、「世の終わりまであなたがたと共にいる」とおっしゃっています。イエス・キリストがいらっしゃるのは、復活して聖霊をもって、復活したキリストがここにいらっしゃる、現存しているんだ、ということ。ミサをささげ、福音を告げ知らせるときに、そこにイエスがいらっしゃるということを信じる。しかし、復活のイエスの現存は完全なものではなく、イエスの別離、もういない、ということと、だけどいる、という両方を表すしるしなんです。そこが面白いところです。イエスがいるということといない、という両方があるわけです。あるということを強く言うと、こっちは万々歳、勝利に輝く栄光の教会、他の教会はだめ、という姿勢になってしまう。

でも、いろいろやってみると、これでもイエスがいる、と言えるのかということも見えてきて、ときには、明かりが風前の灯、消えそうになるほど危うくなったことがあるが、でも、イエスはいるよ、という。あるときは、明るくなるが、あるときは暗くなるという教会。今はむしろ反省しながら、でも、罪人の中に神様の栄光が輝いている、そして、そこに希望がある、というところを見ていこう。教会とはそういうところではないでしょうか。そうならなければいけないと思います。

わたしもいろいろ至らないけれども、復活の光をいただけば少しは明るくすることができる。わたしなりに小さな明かりを灯すことができるという 自信を与えられているのではないか。

教会は、反省しながら、自分自身を福音化して、そこに復活のキリストの輝きを映すことができるし、また、今もそうしていると思います。

 

【質 問】

Q: 神の民のネットワークを作るとは?

A:  私も分かりませんので、皆さんでお考えください。

私が一番言いたいことは、「教会」は、イエス・キリストが集められた神の民ですね。「2匹の魚と5つのパン」を分かち合いましたね。分かち合うということは横のつながりがある、ということですね。それ から、「善いサマリア人」の話では、通りかかったら死にそうな人がいたので、全然関係なかったのですが、見るに見かねて走り寄って、自分のできる手当てをし、宿まで連れて行ってお金が足りなかったらこれで何とかしてくれ、と言った。そこにサマリア人との間につながりができた。つまり、私たちはそのように、イエス・キリストという仲介を通して、誰とでもつなぎをつけていくべきものです。でも、教会は、横の人とのつながりを作ろうとしない。一生懸命神に向かってお祈りはするが、隣の人がどういう人かについては関心がない。世間で苦労しているので、せめて教会に来たときにはあまり人と会いたくない、ということは分かりますが。それほど疲れている、ということでしょうが。でも、イエスの弟子たちはそうではなかった。集まって、お互いに会うことを喜び、助け合ったと思います。何かおかしくなっているのではないかと思います。そういう状態を何とかしたいと考えています。そうなってしまったということは、理由や原因があると思います。横のつながり、分かち合い。私たちは一人では生きられない。いろんな問題があります。せめて、悩みや苦しみを安心できる相手と分かち合いたい。でも下手なことを言ったら、えらい目に遭う。二度と教会に行けなくなる、というのはよくないですが。

 

Q: 今、時代は転換期にある。どう認識しているか。

A:  おおげさな認識はないですが。今までのやり方では行き詰まってしまったと、東京教区司祭団が認識していることです。行き詰まり、閉塞状況といいますかね。このままでは先が見えない。でも、先を開いていかなければいけない。そういう転換期で、今の教皇様は、どういうふうに評価されるでしょうか。保守的な面と革新的な面がおありの方で、次の教会のあり方を一生懸命指し示そうとしてくださっている偉大な教皇だと思いますが。あとから振り返ると、あのとき大きな転換期だったと言えると思いますが。教会に限らず、今の社会で、グローバリゼーションということばが流行っていますが、世界が急速に一つの経済面に収斂されつつあって、一か所で起こったことが、全世界に及んでいく、良いことだけでなく、むしろ悪いことがすぐ全世界に 広まっていく。難しい状況にあるのかなと思います。人と人とのつながりが希薄になっていく。かつてあった温かい人と人とのきずなが持ち難くなっていく、というのが世界的な傾向ではないか。今ローマで開かれている枢機卿特別集会に白柳枢機卿様が行かれましたが、そこでいろいろな話が出ているようです。一つの大きな課題として家族、家庭ということがあって、今、世界的に家族、家庭が崩壊状態にあるということが各国の枢機卿から指摘されている、ということでした。

 

Q: 教会は閉鎖性、信徒の自己満足(?)

A:  私たちは自分の教会のことは大事、というのは当然ですが、そこから出て、今社会の中で苦しんでいる人、悩んでいる人に向かわなければならないのではないか、それが教会の本来のあり方ではないかと思います。

 

Q: 愛の共同体となるためには、祈り、黙想が大切ではないか。

A:  そのとおりです。祈るということと、貧しい人と共に歩むということが大切ですが、概して活動に走る人はお祈りをしているのかな・・。聖堂に行って静かにしていなければ祈っていない、とは言えませんが。お祈りしている人 は隣の人がどんな状態でも何もしないでいいのか。分離状態があるのかなという気がしていますが。

 

Q: 貧しい人はなぜ幸いなんですか。

A: イエス・キリストが基準です。貧しいこと自体が良いことではないので、貧し いことは改めていかなければいけないですね。私たちと同じように貧しさを共にされ、貧しい人として歩まれた。そういうイエス様の生涯は修道誓願にもあるわけですが。教会は、貧しい人の教会、貧しい人のために教会はある、貧しい人に遣わされているわけで、貧しい人とともにするなら教会は貧しくなるはずですが。人の貧しさを共にすることは大変なことで、頭で考えたり、口で言ったりするのは簡単ですが。同じように貧しくなる、というのは、たとえば差別されている人は、ある意味で貧しくされている人ということでしょうが、その貧しさを自分も受ける、ということは大変なことですね。差別さ  れている人に頑張りなさい、と言うのは簡単ですが、差別されている人と同じ苦しみを自分も持つというのは大変なことだと思います。イエスは差別さ  れていた人の苦しみを 自分も受けられた、ということだと思います。だから、教会はある意味で人生、世界の不条理を担う、ということだと思います。全く不当なことですね。あってはならないことですね。そういう現実が満ち満ちているこの世界の中で教会はその不条理を受け入れていくか、それが問われているように思います。

 

Q: 司祭、司教はだれに対して責任を持つのか。

A:  イエスは、貧しい人に派遣された。私たちも貧しい人に派遣された。貧しい人の苦しみを分かち合うために派遣されているんです。教会、司祭、司教もそうです。そういう人々のために、わたしは共にいる、別の言い方をすれば、そういう人たちに対して責任がある、と言えるでしょう。そして、イエス・キリストは御父から遣わされたので、御父に対しての責任がある。お望みのとおり、行っているか、それは天の御父に問われるわけで、それは、天の御父の望んでいることは、「あなたは貧しい人と共にいなさい」 、それは派遣した人に対する責任の取り方は、自分が遣わされている貧しい人に対して自分がどうであったか、ということが基準なんですね。だけど、組織の中では、自分の守備範囲はここで、その範囲のことをやっているか、隣のことより自分のところの方が大事で、自分を任命した人の顔色を伺う、そうなりがちだと、そういう欠点を持っている。だから、それでいいのではなく、それに気をつけましょうということです。たとえば、私を任命したのは、皆さんではなく、ローマの教皇様です。派遣した人は、わたしの栄光のために派遣したのではなく、「あなたは行って東京教区という競争と管理の中で人々が苦しみ、悩んでいる人々のところへ行って 、イエス・キリストの福音を伝えなさい」と任命したんです。そうしているかどうかが、私の責任の取り方です。

 

Q: 教会の使命とイエスの使命は結びついている

A: 私たちはキリストとつながる者になったんです。キリストの霊を受けた者です。罪人でもあります。イエス・キリストのようにはできない。隣の人を見てもどこにキリストがいるか、と思いますが・・キリストの方をよく見るということです。誰でも、キリストの兄弟、姉妹として受け入れましょうということです。

 

Q: 正義と平和について

A:教会の使命の中に、社会的責任があって、最近教会はイエス・キリストの福音を告げ知らせるということを自覚している。教皇様も伝統的な教えをしっかりと教えながら、平和の実現のために意欲的に働き、政治的、経済的な面も教会として発言なさっている。現代世界憲章ですが、「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみである。真に人間  的な事がらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」というのが一番最初にある教えです。人間の問題はキリストの弟子たちの問題だし、教会の問題とか、信者の問題だけを限定して教会は働く。人間が苦しんでいる、悩んでいるのは、イエス・キリストの心に反響を呼び起こす。どうでもいいということではなく、大きな関心を寄せて、神が造った人間が幸せになるか、教会はできる限りの働きをしなければならないし、したいと宣言しているわ けです。現代世界憲章全体は、地球上の現実の問題についての教会の見解を、原則ですが、述べています。世界が終わりにならないと完成しないと思いますが、たえず努力して完成されるように、人権が尊重されるようにするのが教会の使命の一つであると言っていると思います。当然なすべきことを、愛の名によってすべきでない。キリスト者は「愛しなさい」と言われたからあなたを愛してあげるのではなく、向こうはそうしてもらう権利があるんです。しない方がいけないんです。当然しなければならない、と考えるべきだと言っています。目の前に飢えて死にそうな人がいたときに、自分の食物を差し上げる、できることをします。それをしたからと言って何の自慢にもならない。人間として当然なすべきことをすることは義務であって、愛徳の名によってすべきではない。愛というのはもっと大きなことで、義務ではないけれども、自分をささげてでもしたいというほとばしりが愛徳というのでしょう。善いサマリア人の場合もこれは愛徳か義務かと考えてやったのではないと思います。人を助けなければ罰せられるわけで、しかし、これは際限なく広げられたら 自分の生活が何もできません。法律は人間に最低のことを義務として課しているわけですね。でもしないからと言って処罰したりしません。キリスト者は、当然すべきことすらしない、当然すべきことをして私は神さまの愛徳を行った、なんておかしい、ことですね。当然すべきことなんだ、と公会議文書で言っているということです。

 

Q: 教会が貧しくならないといけないということ。貧しさの現場を知る。痛みを分かち合い、痛みを知らないとこれは分からない。小教区の再編成と言われているが、昨年は統廃合という言葉が使われていた。貧しい教会と小教区の再編成とが結びつかない

A: 再編成は、今の小教区がお互いに貧しさを分かち合うための新しいやり方だと思います。今分かれていて、それぞれが自分のところをやりくりするようになっていて、それでどうにもならなかったら、本部の方に連絡する、という仕組みです。2匹の魚と5つのパンの話にあるように、これしかないものを、共にする、分かち合うのが教会だと思います。横につながらないので、それを分かち合うようにするのが司教で、ここで困っているから何とかしようといって直接介入してやらなければならない。それをできる限り、直接、兄弟姉妹として分かち合い、輪を広げていって、善いことも苦しいことも共にすることによって一つの教会として成長することを皆さんに訴えたい。

 

Q: 他教区との連帯 ・ 信徒と信徒の交わり ・ モデルとして考えているか。

A:  東京教区の立場として話しますが。私は1年前まで東京教区の人間ではありませんでした。司教協議会の仕事を長年させていただきました。教区を越えてやっていかねばならないということはしみじみと考えさせられています。首都圏の東京、横浜、浦和、の3つの教区は多数の外国から来たから方々がおられるわけですね。信者なら信者としてのお世話をしなければならないし、信者でなくても、いろんな困難にぶつかっている。教区の間で連絡して協力しないとどうにもならない。3つの教区が連携しなければならないと思っています。管区ですが、日本は3つの管区に分かれていまして。東京は6つの教区です。札幌、仙台、東京、浦和、横浜、新潟、の6つの教区は東京教会管区 になっていて、管区の中心は東京ですから、私は管区の大司教として6つの教区の協力、連携する責任を担っています。これも重大な課題としてやらなければと思っています。

生涯養成でも、お互いに役割を担い、助け合っていただくためにやっていますが、これから具体的にお願いするのですが、今、東京教区で直面している問題を皆さんで分かち合っていただき、信徒の役割をもっと明確にしたい。司祭と信徒の協力がどうあるべきか、今のところ、良く行っているときは「こんなにうまくいっています」という報告はこない、問題がなければいいとは言えませんが。更に、信徒と信徒の間の理解と協力も簡単ではない。それを推進するのは牧者である司祭だと思いますが、今度の再編成の流れの中で、一つ協力を強力に訴えたいと思っています。そのために  は、司教と司祭、司祭同士の協力がなければ皆さんにお願いする訳にはいかないんです。司祭の月例集会がありましたときに、これから信徒にお願いするんだから、われわれの協力もしっかりやろうと叫んだ のですが。皆さんもお互いに足をひっぱるのではなく、元気づけるようにしたいと思います。人間はちょっとしたことで励まされたりしょげたりしますね。一言が人を殺すということがありますので。

最近思ったのは、アルコール依存症の集まりというのがあり、彼らは今日、教会に行かないとまずい、というのではなく、行かないともう自分たちが生きていけない、飲まずにはいられない。会 って、今日一日頑張ろうね、と。自分の問題はいやというほど知っている。十分に非難されているので、お互いに非難しない。自分は人に迷惑をかけている。自分の人生はめちゃくちゃだ、めちゃくちゃな者でも神さまは認めてくれる、と。私は教会はそういうところがあったらいいと思いますね。教会は「お前は何だ」というところがありますね。「もう教会には行くまい!」と。もう一つの例は教会の模範例ではないですが、教会の原型を感じますが、聖週間の水曜日のことですが、ホームレスの人から話を聞いて感動したんです。ホームレスの人も、いる場所がなく、吹き寄せられるように避難しているんです。ホームレスの人たちの間でお互いに助け合って、必要な物を融通し合う。そして、ホームレスの人たちの間で共同体ができる。傷ついた者  同士が励まし合っている。人間本来のあり方があるな、と思います。自分は傷ついていない、と思う人は自分でやります。自分でやる者同士がぶつかっている のです。