2017年アクション同志会「ファチマの聖母ご出現百周年記念・ラテン語ミサ」説教

2017年11月11日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

説教

今年、2017年5月13日は、ファチマの聖母ご出現100周年を祝う日でした。
教皇フランシスコは、この日、ファチマへの巡礼を行い、ご出現に接したふたりの牧童、フランシスコとジャシンタの列聖式を行いました。

近年、聖母のご出現の奇跡は、たびたび起こっています。有名なご出現を数えてみますと、1581年12月9日、メキシコ近郊のグアダルペで、ファンディエゴというひとりのインディオへの、聖母のご出現があり、教会の権威は、その真実性を認めました。
さらに有名な、ルルドの聖母のご出現。1858年2月11日。南フランス、ルルドで、貧しい少女、ベルナデッタ・スビルーにご出現。教会は、このご出現の真実さを認定しています。
そして、1917年5月13日。ちょうど、第一次世界大戦の最中、ポルトガルのファチマで、聖母がお現れになりました。

その他、聖母マリアのご出現の告は多々ありますが、以上、申し上げたご出現に共通している特色があると思います。
ご出現に接した者は、それぞれ、「貧しく」、「素朴で」、「純心な」信徒であるということです。

グアダルペでご出現を受けた者は、素朴な少年少女、9歳のフランシスコ、7歳のジャシンタ、10歳のルチア・ドス・サントスという人でした。彼らは、親の仕事を手伝う、貧しい田舎の児童でした。また、言うまでもなく、ベルナデッタは14歳であったと報告されています。ファンディエゴは、メキシコのインディオの、素朴な農民でした。

ここで、わたくしの心に浮かぶ、主イエスの言葉があります。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」。

彼らが見たのは、主イエスではなく、聖母マリアですが、「素朴で」、「敬虔」、「純心」な人々には、聖母のお姿が見えた。他の人には見えませんでした。この人たちだけが見ました。

さて、今日のミサの福音の朗読は、みなさま、よくご存知の、ルカの福音、おとめマリアのエリザベ訪問のくだりです。おとめマリアは、天使のお告げを受け、「お言葉どおり、この身に成りますように」とお答えしましたが、その後、すぐに、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と、ルカの福音が言っております。
何気なく、この箇所を読んできましたが、あるとき、つらつらと考えることがありました。
ナザレというところですが、ザカリアの家というのは、どちらでしょうか。エルサレムから、さらに先の方であると思われます。大変遠いです。
そして、マリアは、誰かと一緒に行ったのでしょうか。それとも、ひとりで行ったのでしょうか。どのようにして行ったのでしょうか。歩いて行ったのでしょうか。まさか、馬に乗って行ったわけでもなく、馬車にでも乗ったのか、よく分かりません。馬に乗っているという絵もあります。
ナザレからザカリアの家までの距離が、どのくらいかと思いまして測ってみますと、約100キロメートルはあります。約100キロメートル移動するのに、何日くらいかかるでしょうか。
ご承知のように、イエスの一家は、毎年、過越しの祭りのために、エルサレムまで巡礼していました。そして、その巡礼のときに、少年イエスが行方不明になったという出来事を、ルカが告げています。両親は、3日の後、イエスがいないので、エルサレムの神殿まで戻ったと書いてあります。かなりの距離です。

わたしたちは、聖母マリアという人が、どのような人であるかということを、毎日思いますが、おとめマリア、少女マリアの姿は、わたしたちが思う、聖母のイメージとは、ずいぶん違います。とにかく、すぐに、100キロメートル離れたところに移動する。非常に判断が速い。果敢な、思い切った行動をする人でした。ルカの告げるマリアは、そのような姿です。

さらに、いま読まれました、「マリアの賛歌」、こちらは、わたしたち教会が、毎日、晩の祈りで唱える賛歌でして、通常、「マグニフィカート」と呼ばれています。
この中で、何が言われているのかと、改めて考えてみますと、そこには、福音的というよりも、むしろ、革新的と言いましょうか、大変な内容が告げられています。
「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。

いまの、この世界がそうであるように、当時の社会は、もっとそうであったのでしょうか。格差のある社会、支配者と非支配者が、画然と分かれている社会、富の分配の不公正さ、権力者と圧迫された人の間の、歴然とした立場の違いなど、とても、神様がお喜びになるような状態ではありませんでした。

この「マリアの賛歌」によれば、「人々を押さえ付け、締め付け、そして、搾取している、支配階級の人たち、そのような人たちは、引きずり降ろされなければならない。
貧しい人、飢えた人が大切にされ、そして、権力ある人、富んでいる人は、その力を失い、低くされなければならないのだ。それが、神様のみ心である」、と言っているように読み取ることができるのではないでしょうか。
おとめマリアを通して、神様が告げられた、この祈り、それは、当時の社会の状態が、神様のみ心に適っていないということを、はっきりとうたっているのであり、そして、いまもなお、さらにその状態は悪くなっていると言うことができるかもしれないと思います。

聖母のご出現に接した、心の清い人たち。わたしたちは、そのような恵みに与っていませんが、心の清い者でありたい。そして、いろいろなことで迷ったり、ためらったりするのではなく、きちんと判断し、決断し、行動できる者でありたい。
そして、この社会の状況を、神の国の到来のしるしとなるような、状態に変えるために、力を尽くしたい。

今日、わたくしは、そのような意味を、今日のミサの朗読で受け取り、そして、みなさまにお伝えしたいと考えました。

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記3・9-15,20
第二朗読 ローマ5・12,17-19
福音朗読 ルカ1・39-56
 
(福音本文)
 
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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