諸聖人の祭日ミサ説教

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    2017年11月1日午前7時、関口教会

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日、11月1日は、すべての聖人を祝う日、諸聖人の祭日です。  
    毎年、この日には、幸い八カ条、いわゆる、真福八端の福音が読まれます。  
    イエスの周りには、多くの群衆が集まっておりました。その人々は、貧しい人々、病気の人、障がいを持つ人、生きるのに困難をおぼえている人々、非常に、生きづらさを感じている人々、生きる手立てがない、あるいは、乏しい、社会的に、大変惨めな状態に置かれている人々、・・・そのような人々が、イエスのもとに集まってきました。  
    「心の貧しい人々は、幸いである」。  
    イエスは、まず口を開いて、そう言われた。  
    マタイの福音による、真福八端の第一条ですが、同じ内容を告げる、他の福音書、ルカでは、  
    「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6・20)  
    となっております。  

    貧しい人は、本当に幸いでしょうか。  
    「清貧」という言葉があります。清い貧しさ。修道誓願に、「清貧」という誓願が、必ず入りますが、この場合は「清貧」ということではありません。単純に貧しい、ということです。  
    貧しい人々とは、生きることが難しい、生きる意欲をそがれている、苦しみ、悩んでいる人々です。  
    そのような人が、幸せでしょうか。  

    重度の障害を患っている人々がおりまして、その人が、「あなたは、そのような病気を持って、幸せだ」と言われて、大変怒っておりました。「何が幸せだ。わたしのようになってみろ」と、激しい怒りを表していました。  
    貧しいということは、決して幸せではない。「貧困」という言葉に言い換えればわかります、わたしたちの教会も、「貧困」を消滅させるために、努力しています。  

    さらに、「心の貧しい」という言葉は、何を意味するのだろうか。日本語で「心が貧しい」というと、決して良い意味ではありません。「さもしい、意地汚い、狭い、卑しい」など、悪い意味ばかりが連想されます。  
    普通、この箇所は、「ひたすら、神に依り頼む人々、物に執着しない離脱心、つまり、心が、神以外の物から離れ、そのような物に、依り頼んで生きるということから、解放されている心の人々」というように、言われています。  

    「心」と訳されている言葉の原文は、「霊」です。ギリシャ語で「プネウマ」という言葉です。ラテン語では「spiritus(スピリトゥス)」、英語では「spirit(スピリット)」、ヘブライ語では「ルーアハ」と言いますが、これは「霊」です。  
    「息」、人間の生きている証拠、日本では「息を引き取る」ということは、「死ぬ」ということですが、「息」ということは、創世記には、「神様が人間に息を吹き込まれて、生きる者になった」とあります。(創世記2・7参照)  

    「息」とは、元気の「気」だと思います。人は、神とのつながりの中で、健やかに、元気に生き、生きる力を受けます。神とのつながり、あるいは、人々とのつながりの中で、「気力のある人」、「霊において、元気な人」となります。  
    ところが、「霊において貧しい人」とは、その反対で、生きる力、生きる動機において、非常に弱い人々ではないかと思います。「生きていることが嫌になった。生きる甲斐がない」と感じている人々が、それでも、イエスの評判を聞いて、集まってきた。ここに、教会の原型があるのではないかと思います。  

    教会とは、この世的に、恵まれた人々、見るからに、健やかで、顔色も良く、元気いっぱい、そのような人々の集まりではなく、見るからに、打ちひしがれ、しおれ、悩み果てている、そのような人々が、イエスのもとに集まってできた団体、もともとは、そのような団体ではないか、と思うのです。  
    そのような人々に向かって、「あなたがたは幸い」と言われた。この世的に言えば、正直に言えば、全然幸いではないと思う。でも、「幸い」と言われた。  
    「天の国はその人たちのものである」。  
    「幸いである」と言われたのは、神様が、その人たちとともにいる。「神様の力、神様の助けが、みなさんとともにありますよ」という意味ではないかと思います。  

    イエスは、貧しい人々の友となりました。人々から嫌悪され、弾き飛ばされている、そのような人々の仲間になった。そして、聖書の重要な掟、十戒を平気で破った。そのような冒涜者であり、汚れた人たちの仲間となった者として嫌悪され、最後に十字架に追い詰められ、亡くなりました。  

    わたしたちの宗教は、そのような人のもとで、成立した宗教であります。その原点に戻らなければならないと思います。生きるということは、大変なことです。毎日、わたしたちは、試練のもとに置かれています。  
    その試練を、別の言葉で言えば、「煉獄」と言うことができるかもしれない。「煉獄」は、清めを受けるということであり、わたしたちが地上を去った後、清めを受ける機会があるという教えですが、地上が「煉獄の始まりでもある」と言うことができるのかもしれません。  まだ、神を目の当たりにすることはありませんが、そのとき、わたしたちは御子に似た者になるという希望持っています。そのとき、わたしたちは、今日の第一朗読にありますように、天の御父、そして、わたしたちの贖い主(あがないぬし)、主イエス・キリストとともに、神の救いを喜び、賛美することができると信じ、希望しております。  

    ところで、個人的なことですが、10月24日がわたくしの誕生日でして、先日、みなさまからお祝いの祈りの花束をいただきまして、本当にありがとうございました。  
    その翌日の25日に、わたくしの辞職願の受理が発表されましたので、わたくしは、東京大司教の職を去ることになりました。もう、法律上、教区管理者、次の大司教様が就任されるまでは、責任者ですが、東京大司教の任務を終了いたします。  
    みなさまの、お祈り、そして、このミサにときどき参加して、ご一緒にお祈りできたことを、大変嬉しく思っております。  

    これからは、新しい人生、もう一度、キリスト者の生き方をやり直す、そのような人生、いまの仕事は、非常に管理的な、行政的な部分が多いのですが、そのようなものから解放されて、ひとりのキリスト者として、誠実に生きたいと、心から願っております。  
    どうぞ、また、みなさま、わたくしのために、お祈り、支援をくださるように、お願いいたします。ありがとうございました。