司祭集会ミサ説教

2017年10月25日 箱根

[聖書朗読箇所]

説教

今日の福音朗読から、次の言葉、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」という「みことば」が、わたくしの心に、強く迫ってきます。  
わたくしは、多く与えられた者でしょうか。だれにでも、神は、それぞれの人に、使命を授ける。その使命を遂行するために、必要な恵みを与えてくださいます。  
わたくしは、自分の役割を、どのように果たしてきただろうかと、考えざるを得ません。 そして、まだ、これからの人生がありますので、残りの人生、本当に自分が、特に求められていることに、力を注ぎたいと考えております。  

朗読は、ローマの教会への手紙が、ここのところ連続して読まれております。 「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。  

この言葉を選んで、黙想したいと思います。わたくしの心に浮かんでくるのは、無理があるかもしれませんが、「ルターの宗教改革500年である」ということです。  

11月23日に、長崎の浦上教会、司教座聖堂で記念行事があります。  
ルターという人は、アウグスチノ会の修道者、修道司祭でした。そして、非常に熱心で真面目な修道者でした。よく祈り、苦行し、聖書を学び、聖書を教えていた。  
どんなに修行しても、どんなに努めても、自分が神の前に罪びとであるという思いをぬぐい去ることができなかった。「神からの赦しをいただいている」という安心を得ることができなかったそうです。  
彼は、詩編を講義にするという役割をいただいた。そして、あるときに、詩編の次の言葉に強く心を打たれた。  
「神よ あなたの義によって わたしを解放してください」。  
これは、ヴルガータ訳の直訳ですが、ルターにとって、「神の義」というのは、自分を裁く、神の厳しい態度、自分は、とても神に満足していただけるような人間ではないと、いつも罪の意識におびえていた。  

しかし、「あなたの義」というのは、神がわれわれを罰する義ではなく、わたしたちを義とする義であると、話が複雑ですが、わたしたちを、赦しあがなう神の恵みであると、あるいは、「あなたの義」は、イエス・キリストのことであるという解釈に達したそうです。そこで、一点突破の道が開けた。  

ちなみに、旧約聖書の原文は、「ツェデク、ツェダカー」という言葉で、これは、神があがなう、赦すという意味が強い言葉で、「神が人間を、その行いに応じて、厳しく裁き、罰する」という意味よりも、「神はわたしたちをあがない、救う」という意味であるそうです。ルターのこの解釈は、彼を新しい道に導いた。  

カトリック教会とルーテル教会の対話が進行し、基本的に「義認」の理解について、強調点の違いはあるが、基本的に一致しているという結論に至り、共同宣言が出されています。  

さらに、いろいろな点が、まだ、一致していませんが、一番大切な、「救い」ということに関しては、基本的な理解は同じです。「要望」の理解は違います。「罪」という言葉の理解も、少し違うようですが、よく聞いてみると、基本的に同じ理解をすることができるということになったそうです。  

さて、わたしたちは、いま、日本のこの地で、イエス・キリストを宣べ伝える、そのようなときに、どのような言葉で、どのように伝えたら良いのでしょうか。  
同じことを繰り返しますが、悩み、苦しみ、生きがいを失っているひとびとに、安らぎ、救いを伝えるために、どのようにしたら良いかということを、これからもご一緒に求めていきたい。  
人間は、自分の努力で自分をどうかする部分もありますが、どうにもならない部分も多い。むしろ、そのほうが多いかもしれない。そのような一人ひとりを、神がどのように包んでくださるのかということを、伝えて行かなければならないのではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマの信徒への手紙 6:12-18
福音朗読 ルカによる福音書 12:39-48

(福音本文)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」  
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 

 

 

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