教区の歴史

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世田谷南宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月29日

2017年10月29日、碑文谷教会

[聖書朗読箇所]

世田谷南宣教協力体合同堅信式にあたって、今日の聖書朗読から、わたくしが、特に、思い、感じていることを、申し上げたいと思います。
旧約聖書には、神様が、イスラエルの民に与えた掟(おきて)が記されております。神の掟は、いろいろな律法に、細かく分かれていました。
そこで律法の専門家がイエスに、「どの掟がもっとも大切か」という質問をしたところ、イエスはお答えになりました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。
さらにイエスは続けて言われました。
「第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
「神を愛すること」、そして、「隣人を愛すること」。このふたつには、切っても切れないつながりがあります。
そこで、わたくしの心に浮かんでくる、新約聖書の教えがあります。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。
「目に見える兄弟を愛さない、憎む者がいれば、それは、偽り者である」と、ヨハネの手紙が述べています。
「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、「兄弟を愛する」ということは、ひとつに結びついています。神様のお望み、それは、わたしたちが、互いに愛し合うということです。
主イエスは、弟子たちにお命じになりました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

「愛」という言葉は、非常に多義的であり、その意味は曖昧です。
わたくしは、この「愛」という言葉から、使徒パウロの教えを思い出します。
それは、「愛の賛歌」と呼ばれています、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章、大変有名な教えです。
「愛は忍耐強く」という言葉から始まっています。
数えてみると、15カ条が述べられています。
「愛」という言葉のギリシャ語の元の言葉は「アガペー」という言葉です。この「アガペー」には、15のことが含まれていると、使徒パウロが教えています。この15のことを見てみますと、「忍耐」ということに関する教えが、非常に目立つ。最初に出てくる教えが、「愛は忍耐強く」という言葉です。
さらに、ずっと見ていきますと、「(愛は)いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてに耐える」とあります。
愛という言葉は、忍耐という言葉に深く関わっているようです。言い換えれば、恨んだり、怒ったり、憎んだりするという、人間の心の状態から解放されていることではないだろうか、と思います。
自分のことを振り返ってみますと、いろいろなことで、いらいらしたり、不快に感じたり、場合によっては、人を攻撃する、ということになります。あるいはそこまでは行かないまでも、陰で人の悪口を言う。そのようなわたしたちではないだろうか。
生きるということは大変なことで、人生とは、困難なものであります。
仏教では「四苦八苦」と言います。4つの苦しみ、8つの苦しみ、非常に、生きるということは大変なことです。苦しみが伴う。現代の言葉で言えば、「ストレスが多い」。この「ストレス」に、どのように立ち向かうか、あるいは、どのように発散するか、が課題です。ストレスを発散するために、近くにいる人に矛先を向けて、自分の不満や怒りを向けてしまうということが、ありはしないだろうか。
みな、欠点のある人間です。こちらが望むように、相手がしてくれるわけではない。「こうして欲しい。こうであるはずだ」と思っても、ほとんどの場合、そうは行きません。
家族関係、あるいは、仕事関係、あるいは、われわれの教会の中でもそうです。お互いに、多少とも、傷付けてしまう。あるいは、相手のことがよく分からない。分からないから、その人を温かく、赦し、受け入れるということが、なかなかできない現実が、あるのではないでしょうか。
分からなくとも、自分が望むようなことをしてくれなくとも、その人を大切にするということが、聖書の教える「愛」、「アガペー」です。
「(愛は)すべてに耐える」。

勇敢に、静かに、試練の中で、しっかりと、神の愛に留まること。神がわたしを愛してくれている。イエス・キリストは、わたしのために、十字架に架かってくださった。神は、すべての人を愛し、そして、わたくしを大切な人と認めてくれている。いま、自分を不快にしている、この人も、神様が愛している人なのだ。自分の心に起こる、いらだち、怒り、そのようなものを、静かに見つめて、そして、神の愛を深く思う。それが、わたしたち、キリスト者の生き方ではないかと思います。

わたくしが、非常に心に響いて、良い言葉だと思う聖書の言葉はたくさんありますが、その中のひとつが、旧約聖書の続編にある、「知恵の書」にあります。
「あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる」。(知恵11・24-26)

「わたしがこの世に存在するのは、神様のお望みによるのである。自分が、人と比べて、どんなに劣っていても、どんなに問題があっても、神様は、このわたしという存在を、愛おしく思ってくださる」。この信仰が大切ではないでしょうか。

日本は、非常に自殺者の多い国です。カトリック教会では、最近、自死という言葉を使っておりますが、自死する人が多い。毎年、年間3万人を超える人が自殺していましたが、最近、3万人を下回った。政府も一生懸命対策を立てて、努力した結果、自殺者は減っている。
しかし、青年の自殺は、相変わらず多い。15歳から34歳までの、若い世代の人の死因の第1位は自殺です。病気でも、事故でもない。先進7カ国の中で、日本は1番、若者の自殺が多い国であると言われています。
自分の存在の意味が見いだせない、あるいは、よく分からない。現実の困難の中で、生きていくための動機が、非常に弱くなってしまう。そのような現実があるのではないでしょうか。

神は、あなたを大切な存在として造り、そして、いまも恵みをくださっています。それは、人間関係の中で培われます。まずは、家庭で、そして、友達の中で、大切であるということを、お互いに教え合い、そして、そのように行動することによって、人は、自分が大切な存在であると実感することができる。
「愛する」ということは、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」、そして、「自分を大切にすること」と結びついていないといけない。世界中にひとりしかいない、このわたしを、神様は造ってくださった。そして、わたしに使命を与えてくださっている。失敗したり、嫌なことがあったりしても、自分自身をもう一度見て、そして、自分は大切な存在なのだという信仰を、新たにしたいものです。

堅信を受けられるみなさん、「神は愛であるということ」、「お互いに掛け替えのない存在として、大切にするということ」が、結局のところ、福音宣教することになるのだと思います。