武蔵野北宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月9日、清瀬教会

[聖書朗読箇所]

武蔵野北宣教協力体の合同堅信式を、清瀬教会で行う今日、わたくしは、大変嬉しく感じております。

いま、読まれました、ヨハネの福音ですが、復活した、主イエスが、弟子たちにお現れになった様子を告げています。
弟子たちは、イエスの十字架の死という、出来事に出会い、非常な驚き、おそれ、不安、悲しみをおぼえていたと思います。
どうして良いか、分からない。どちらかの家に引きこもって、固く戸を閉め、鍵を掛けて、誰も入ってこないようにしていたと思われます。そちらに、イエスが入ってこられた。
「あなたがたに平和があるように」と言われた。そのとき、弟子たちは、非常に喜びました。毎回、この箇所を読むときに、「喜んだ」ということが、非常に大切なのではないかと思います。イエスがよみがえられたことを喜びましたが、同時に、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったことを、喜んだのではないでしょうか。

ペトロをはじめとする弟子たちは、どのようなことがあっても、あなたに従いますと、大見得を切ったにも関わらず、みな、イエスを見捨て、逃げてしまった。先生を裏切ってしまったという悔恨、申し訳ないという気持ちがあったと思います。そして、ユダヤ人のことも恐ろしかった。
その弟子たちに、イエスが、「あなたがたに平和があるように」と言われた。弟子たちは、自分たちがしたこと、過ちを、イエスが赦してくださったのだということを、実感することができました。この喜びの体験が、教会の誕生となったのだと思います。
イエスは弟子たちに、聖霊を授ける。そして、聖霊によって、罪の赦しをすることができる力をお授けになりました。

第一朗読は、使徒言行録の2章、弟子たちの上に、聖霊が降りてきたという出来事を告げている聖霊降臨の場面です。
多くの国から集まってきた人々は、聖霊の恵みによって、お互いに、言葉の違い、文化の違いを越えて、言葉を理解する、特別な恵みを受けたと、聖書は伝えています。
わたしたちの教会は、このようにして誕生しました。教会というのは、言葉、民族、国家、文化、習慣、いろいろな違いがあるが、その違いを大切にしながら、同じ神様を信じ、同じイエス・キリストを救い主と信じ、聖霊を受け、神様の福音を宣べ伝え、証する共同体、同じ神の民です。
そして、教会は、このときから、イエス・キリストを宣べ伝える、宣教する共同体になりました。
堅信を受けるみなさんは、聖霊降臨のときの恵みと同じ恵みをお受けになります。聖霊降臨のときに降った聖霊と同じ聖霊が、みなさんに与えられて、聖霊の7つの賜物が授けられます。
福音を宣べ伝えるという使命は、教会が授かったもの、全員が受けた使命です。司祭、司教にとっては、当然の仕事ですが、全員が洗礼を受け、特に、堅信を受けるみなさんは、全員、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。
自分が信者になったのはなぜか。自分にとって、イエス・キリストは誰であるか。どのようにして、自分は信仰を生きているのか。なぜ、信仰が自分にとって必要であるか。
そのようなことを、自分の言葉で話してください。自分の体験を話してください。

日曜日、司祭は忙しいので、教会に来る人、ひとりひとりの話を丁寧に聞いたり、聖書のお話をしたりする余裕が、なかなかありません。そのようなときに、教会では、司祭を助けて、自分の信仰を、あるいは、カトリック教会の教えを、自分の言葉で伝える人が必要です。
そのような人を、東京教区は、しっかりと準備したい。そのような計画を、いま、作っています。

また、はっきりと勉強したいという気持ちはないようだが、教会に来たという人に、「こちらに来て良かった。自分の場所がある。自分の問題を話すことができそうだ」と思っていただけるような、そのような教会でありたい。
既にそのようにしていると思いますが、もっと、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人が近づきやすい、安らぎを見出すことができるような共同体になるように、お互いに努力したいと思います。

いまから30年程前、1987年11月でしたが、日本のカトリック教会は、福音宣教のための、非常に大がかりな会議を開きました。
福音宣教推進全国会議、『NICE(ナイス)』と言っておりますが、開かれた教会作りをスローガンに掲げました。人々が近づきやすい、入りやすい、自分の場所を見つけやすい、そのような教会になろうという目標を掲げました。

キリスト教はなじみにくい、敷居が高いと思われている。どうしてなのでしょうか。
わたしたちが、あまり人を歓迎するような態度を持っていないからでしょうか。あるいは、信仰は自分の心の問題であるから、他の人には関係ないと思っているからでしょうか。あるいは、わたしたちの日々の生活を見て、躓くとは言わないまでも、この人たちがしていることは、あまり自分には響かない、言っていることとしていることが合っていないと思っているからでしょうか。あるいは、キリスト教の教え自体が難しいのでしょうか。

教えを、みなが分かりやすい教えに変えるということはできません。イエズス様がおっしゃったことを、こちらの都合の良いように捻じ曲げるということはできませんが、説明の仕方が難しいのかもしれません。
よく、プレゼンテーションという言葉を聞きますが、相手が分かるように、受け入れやすいように、提出しないといけない。相手が、どのような必要を持っているのか、どのような人であるのかをよく見ながら、接触しないといけません。
その点、カトリック教会は落第であったと思います。東京教区は、全員、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教えを実行する教会として、成長していきたいと思います。

今日、堅信を受けられるみなさん、みなさんにできることをしてください。できるようになるためには、お祈りが大切です。神様の恵みがないと、できません。ひとりのときも、朝起きたとき、夜寝るとき、昼間も、「どうか、神様、わたしを助けてください」と祈りましょう。
聖母マリアの助けを願い、聖人の模範を、もっとよく学ぶようにしたいと思います。
どうぞ、堅信を受けられるみなさん、2017年の、この良い日、いつまでも大切に思い起こしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  使徒言行録2・1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

福音朗読  ヨハネによる福音書20・19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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