教区の歴史

教区の歴史

2017年大司教着座記念ミサ

2017年09月03日

2017年9月3日10時、カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・23)
イエスはペトロに、このように強く叱責をいたしました。これは、どのような意味でしょうか。
その直前の場面で、ちょうど一週間前の福音ですが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)とイエスは言われたばかりです。
同じイエスの口から、このような、一見、矛盾するような言葉が発せられたのは、いかなる理由によるものでしょうか。
「あなたが考えているのは人間のことで、神様のことではない。」(マタイ16・23参照)
そのように、イエスは言われました。
折しも、イエスはエルサレムに上り、受難のときを迎えようとしていました。

さて、この問題を、わたしたちは自分に向けられた問いとして深く考え、これからの日々、黙想していきたいと思います。

紀元2千年という年は、ちょうど17年前にあたりますが、カトリック教会では大聖年の年でした。
列聖された教皇、ヨハネ・パウロ2世が、紀元2千年を大聖年であると宣言し、教会を挙げて、この聖年を祝うようにと命じられました。
その準備のために必要なことは、反省、悔い改めということです。第三の千年期を迎える、ということは、千年単位で人類の歴史を見るという大きな視野の中でのことです。
そのときに、第三の千年期を迎えるにあたり、教皇様は、『紀元2千年の到来』という特別書簡を発せられましたが、わたしたち、教会のメンバーは、心から反省しなければ、第三の千年期に入る敷居をまたぐことはできないのだと言われました。
そして、第三の千年期をお迎えになったときに、何度もわたしたちの教会が行った、強く反省すべき事柄に触れておられます。
その中には、「基本的人権の侵害ということ」、「真理に名を借りて、暴力を行使したこと」、「女性の尊厳を犯したこと」などが含まれておりました。
それぞれのことは、具体的にどのようなことが入っていたのでしょうか。

ある、カトリック教会でない教会の聖職者が、あるとき、わたしのところに来られて、「わたしはカトリックに変りたい」と言われました。
「自分の教会は、間違いや腐敗が多くて、とても留まっていられない」と言われたので、「そのようにおっしゃっていただくと嬉しいのですが、われわれのところも、いろいろな問題がございまして、がっかりなさいませんでしょうか」と言ったら、「いや、まだましです。あなたがたには自浄能力がある」。「自浄」とは自ら浄めるという意味です。

そうかもしれません。
「陰府の力も、これに対抗できない」(マタイ16・18)と言われた、イエスのお言葉に信頼し、教会はよろめきながら、間違いながら、自らを正す努力を繰り返してきました。

1962年から1965年で第二ヴァチカン公会議、そして、日本の教会は、その精神を充分に咀嚼した後、福音宣教推進全国会議(NICE-1)を開きました。1987年のことです。

そして、わたしたちは、心から反省して、「主イエス・キリストの教えに従う教会に変わりたい。開かれた教会になります。わたしたちの教会は、苦しんでいる人、病んでいる人、困っている人に、優しく、開かれているだろうか。その人たちが、そこに安らぎ、喜び、支えを見出す、そのような共同体であろうか。深く反省し、誰でもが、自分の場所を見出すことができるような、そのような共同体に変わります」という宣言をしました。(参加者一同の宣言より)

東京教区をはじめ、日本の教会は、この決意に基づき、努力を重ねてきました。
この決意が、どのように実行されたでしょうか。
ちょうど、紀元2千年の9月3日、わたくしは、こちらで、東京大司教に就任いたしまして、この決意、NICE-1の決意を自分自身の決意として、実行したいと申し上げました。

今日の第二朗読ですが、パウロは言っています。
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12・2)
神様が、わたしたちに望んでいることは何でしょうか。何が神様のみ心に適うことでしょうか。わたしたちは、これが正しい、これが良いと思っても、果たして、神様がそれを望んでいるでしょうか。

深い反省のもとに、本当に自分の日々を振り返り、そして、教会のあり方を見ながら、苦しんでいる人、悩んでいる人、自分の場所が見つからない、いろいろと困難な状況にある人に対して、わたしたちは、どのような態度を取っているかということを、深く反省しなければならないと思います。

聖霊の導きを祈りましょう。