教区の歴史

教区の歴史

年間第21主日・本郷教会説教

2017年08月27日

2017年8月27日、本郷教会

[聖書朗読箇所]

今日、8月27日の日曜日を迎え、子どもたちの夏休みの終わりも近づいてきました。9月1日から2学期に入るのでしょうか。わたしも夏休みをいただいて、自分のふるさと、千葉県市原市鶴舞という房総半島の山の奥、そこでしばらくゆっくり過ごしまして、24日(木)の夕方、帰宅しました。

自分で車を運転して帰る途中、ラジオを聴いていますと、2学期の始まる9月1日という日は、子どもたちにとっては問題のある日だそうです。なぜ問題のある日かというと、やっと学校に行って皆と会える日、待ち遠しい日ではなく、むしろ逆で、9月は亡くなる(自殺する)子どもたちの数が多く、特に2学期の始まる日が一番多いという内容の話でありました。教育の専門家、自殺未遂の経験を持つ当事者などが出演して、話をしていました。その番組を聴きながら運転してきましたが、大司教館に到着しても番組が続いていたので、自室で最後まで聴いたわけです。いじめ、不登校に陥る子どもたちが少なくないということでありました。何も死ななくても良いと思うのですが、自分の場所がない、学校にも場所がないという子どもたちの思い。では家庭には?といっても、家庭でもそういう話はできない、聞いてくれる人もいないなど、深刻な状況があるということであります。

平和旬間が終わったので、休みをいただいて、自分の個人的なことを集中的にしたわけですが、今年の平和旬間は何を主題にしようかと相談いたしまして、「子どもと貧困」ということになったのであります。「子どもの貧困」という表現の方が、内容的に直接触れているのかもしれませんが、わたしの中で「子どもの貧困」というのはしっくりこなかったので、「子どもと貧困」というテーマに無理やり、ねじまげたのであります。日本の子どもは貧困の状態にある、経済的に貧困である子どもも少なくないが、精神的に、人間として貧しい状態、苦しい状態にある、そういうことをしっかり学びましょうという趣旨で主題設定したということです。
子どもの貧困の中に、子ども・青少年の自殺ということがあるのですね。16歳から34歳の青少年の死因の第1位が自殺であるということを知りまして、大変衝撃を受けました。先進7か国の中で日本が第1位であるという自慢にならない第1位で、しかも死因の中の第1位が自殺であるということです。
日本の司教協議会は『いのちへのまなざし 増補新版』という教書を発行し、「いのち」という問題を多方面から考察しながら、大切にすることを学びましょうと呼びかけています。平和旬間でも「『いのちへのまなざし 増補新版』を学びましょう」と繰り返し呼びかけました。

さて今日、年間第21主日を迎えております。ペトロはイエス・キリストへの信仰告白をいたしました。はっきりとイエスに向かって「イエスが誰であるか」ということを告白した最初の人として福音書の中にペトロは描かれています。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)というイエスの問いかけに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたのであります。
わたちたちもイエス・キリストを信じる者であります。この信仰をどのように人々に表し、伝えたら良いのかというが、わたしたちにとっての大きな課題であります。わたしたちのなすべきこと、それはもちろん自分の信仰を自分の言葉で言い表すことでありますが、現代の日本において何を一番伝えなければならないのか、先のラジオ番組を聴いて考えさせられました。深刻な体験の末に死を選んだということではなく、生きていることに意味がない、生きていることに疲れたという青少年、本来一番輝いているはずの時期に「疲れた」と感じていることに皮肉な面があります。生きていくための張り合いがない、何気なくこのまま死んだ方が楽だと思って、駅のプラットホームから線路に降りそうになったとか、睡眠薬を服用するなどということが特別なことではないということです。

わたしたち宗教を信じる者は、そのような人たちに何をなすべきか、どうしたら良いのでしょうか。今年2017年は、日本の教会が「福音宣教推進全国会議(NICE)」を行って、ちょうど30年になります。ナイスNICEは「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。教会が、苦しんでいる人、迷っている人、困っている人、孤独な状態にある人にとって、近づきやすい、慰め、安らぎ、励ましになるような、そのような共同体になろう、という目標です。わたくしも、東京教区もこの目標に向かってこの30年、歩んできました。2000年9月に大司教に就任した時には、着座式のミサ説教でその決意を申し上げました。その成果はどうだったでしょうか。依然として教会はこの目標実現のためには種々の困難に遭遇しています。
困難とは、わたしたちの弱さということであり、また「悪の存在」ということでもあります。わたしたちは主の祈りで「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」と祈っています。ミサの交わりの儀、聖体拝領の前、司祭は「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えら、すべての罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように」という言葉で祈ります。
今日の福音ではイエスはペトロに言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16・18)
「陰府」(よみ)の力とは悪の力を指していると思います。ペトロは「岩」と呼ばれましたが、普通の人間、いや主イエスを三度「知らない」と否んでしまった弱い人間にすぎませんでした。そのペトロを最初の礎として建てられた教会共同体は、果たして大丈夫か、と思わないわけではありませんが、イエスの約束「陰府の力もこれに対抗できない」を信じ、それを支えてして、聖霊の導きに信頼して歩んで行かなければなりません。
世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主イエスの支え、導き、励ましを受けて、今日も、明日も共に歩んで参りましょう。