2017年平和旬間カテドラル「平和を願うミサ」説教

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    2017年8月12日、カテドラル

    [聖書朗読箇所]

    2017年の平和旬間、カテドラルで献げる、平和を願うミサの福音は、いま、お聞きになられたように、主イエスの、山上の説教です。
    「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、主イエスは言われました。わたしたちは、それぞれ、平和のために働き、平和が実現するよう、努力するようにと、呼びかけられています。
    すべての人の、望ましいあり方を、平和という言葉で言い換えることができると思います。
    日本カトリック司教協議会が発行した、『いのちへのまなざし』という教えを、今日、改めて、みなさんに紹介しながら、平和について学びたいと思います。
    『いのちへのまなざし』が言っておりますように、平和というのは、4つの次元から考えることが適切ではないかと思います。「神との和解、調和」、「人間相互の和解、調和」、「自然との和解、調和」、「自分自身との和解、調和」、この4つの和解、調和が、必要であり、大切であると思います。

    今日の第一朗読は、イザヤの預言、この中で、わたくしの心に響く、大切な言葉は、「大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11・9)という言葉です。創造主である神、被造物である大地、さらに、大地と、われわれ人間との関係が、不調に陥っているのが、いまの状態ではないでしょうか。

    創世記の3章では、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(創世記3・17)という言葉が出てきます。神と、最初の人間、アダムとエバが、神との親しさを失ったために、その影響は、人間と人間との関係だけでなく、人間と自然との関係にも及びました。
    「土は呪われるものとなった」。そのように言われております。

    しかし、イザヤの預言によると、その呪いから解放されるという希望があります。
    「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
    牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
    乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
    わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
    その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11・6-10)

    教皇フランシスコは、『ラウダート・シ』という回勅を出されました。そして、少し難しい言葉ですが、「総合的なエコロジー」を提唱しています。
    わたしたちは、特に、人類の歴史の中で、最近のことですが、自然を大切にするという、基本的な精神を忘れ、あるいは、粗末にしてしまいました。
    自然との調和を踏まえた生き方、それは、すべてのいのち、すべての存在の間には、深いつながりがあるのだという理解であり、それは、すべてのものをお造りになった、主なる神様への信仰に基づくものです。

    この観点から、一足飛びに結論に行きますが、日本の司教協議会は、たびたび、原子力発電の問題を訴えてきました。
    「原発即時停止」、あるいは、「原発の撤廃」を求めるメッセージを送っております。
    この環境問題、環境は、すべてのものがつながりを持っているという、わたしたちの信仰、神の創造の働きに、もう一度、わたしたちの心を戻し、そして、日々の生活の中で、神様からいただいている自然の恵みを大切にしたいと思います。

    さて、先ほど申し上げた、『いのちへのまなざし』は、いのちを大切にすることについての、わたしたちの数々の課題を述べております。
    その中で、今日は、特にひとつのことを取り上げたいと思います。それは、最近、日本で行われた、まだ行われているかもしれない、「ヘイトクライム」、あるいは、「ヘイトスピーチ」という問題です。4つの和解の中で、「人間相互の和解、調和」を損なう、非常に重要な、由々しい問題です。

    イエス・キリストは、隣人を愛するように教え、しかも、その隣人には境界を設けませんでした。
    わたしたちは、自分が、よく理解できない、自分にとって都合が良くない人たちのことを、嫌ったり、避けたり、あるいは、極端な場合、排斥するという傾向をもっております。
    主イエスは、人間と人間との間の、あらゆる境界を超え、敵と言われる人たちも、同じ人間として受け入れ、ゆるすようにと教え、そして、その教えを自ら実行されました。

    この、『いのちへのまなざし』をお読みいただきたいのですが、この本では、次のように述べられています。

    「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
    「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです」。(150ページ)

    差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。この、差別という、人間の心に宿っている、根深い問題、それは、わたしたち自身の問題でもあると思います。
    わたしたちは、差別はいけない、自分は差別をしていない、差別をしている人がいけないのだと、言うことができるでしょうか。

    先日の、ご変容の日の福音は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」でした。
    わたしたちも、差別、そして、人権侵害という問題を、自分自身の問題としてとらえ、そして、この悪と戦うために、日々、主イエスにならい、主イエスに聞き従うように、努めたいと思います。