教区の歴史

教区の歴史

2017年千葉地区平和旬間ミサ説教

2017年08月11日

2017年8月11日、五井教会

[聖書朗読箇所]

2017年の千葉地区の平和旬間行事は、五井の教会で行うことになり、このように多くのかたがお集まりくださいまして、大変うれしく、また、心強く思っております。
先ほどは、ティエン神父様をはじめ、パキスタンからの友人、そしてシスターのお話も伺いまして、それぞれのところで平和を求める戦いが行われていることを、わたしたちは、ひしひしと感じます。
主イエスは、ご存知のように、隣人を愛するということと、わたしたちも互いに愛し合うようにとお命じになり、そして、敵を愛するように、と教え、ご自分の生涯を通し、ご自分の言葉と行いを一致させて、わたしたちに模範を示してくださいました。

平和とは、正義と愛の実りです。毎年、わたしたちは平和旬間を行い、特にこの期間、平和について考え、学び、平和のために祈り、平和についての何らかの行動を起こすようにと心掛けております。

今日、いろいろな課題の中で、ひとつ、みなさんと一緒に考えてみたいことは、『いのちへのまなざし』(増補新版)、日本の司教団による教書に出て来る諸課題です。これを、ぜひ、分かち合っていただきたいです。
いのちを守り、いのちを大切にし、お互いにすべてのいのちを守り、大切にするということがそのまま、平和を実現することになると思います。
わたしたちは、人間のいのちはもちろんのこと、いのちあるものすべてを大切にする、そしてさらに、この世界に存在するあらゆるものも、大切にすることを学ばなければなりません。

本来、聖書の教え、あるいは、イエス・キリストの教えは、人間は大切にするが、人間でないものは、それほどにしなくても良いという教えではなく、あらゆるものが、尊重されなければならないということである、と思います。

いま、全世界で大事な課題は、「環境問題」です。人間は、自分に都合の良いように、この世界を利用しようとして、結果的に、自分で自分の首を絞めているというようなことになっています。
教皇フランシスコの、『ラウダート・シ』という回勅で、このことを訴えておられます。

さて、今日の福音をみましょう。
「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・43)とイエスは言われました。
「敵を憎め」という言葉は、旧約聖書のどちらにも見当たらないようです。旧約聖書では、隣人を大切にしなさいと教えています。困っている人を守り、助けなさいと教えています。
困っている人の代表、孤児、やもめ、寄留者(きりゅうしゃ)、いまでは難民と呼ばれているような人でしょう。旧約聖書の世界では、特に、弱い立場にある人を大切にするようにということが、繰り返し述べられています。

ただ、「敵を憎め」ということについて、「敵を憎め」という言葉は見当たらないようですが、モーセ、あるいは、サムエル、預言者が神様の言葉としてイスラエルの民に告げた言葉は、必ずしも、現代のわれわれにとって、納得のいくことではありません。
特に、わたしたちを悩ませる言葉というのは、イスラエルがカナンに侵入し、カナンの先住民を征服したときに、そちらの先住民を「皆殺しにしなさい」と言ったという聖書の言葉です。
いくら戦争とはいえ、戦うことのできない、女性も、子どもも、家畜も、「情けをかけてはいけない。皆殺しにせよ」と神が言ったというふうに書いてあります。
これを、どのように解釈するか。難しい問題ですが、「聖戦」という言葉、聖なる戦いという考えがありまして、ずっと続きました。他の宗教でも、もちろんあります。
しかし教皇フランシスコは、「聖なる戦いはあり得ない」と何度もおっしゃっています。

さて、『いのちへのまなざし』は、いろいろな問題について解説しておりますので、ぜひ、読んでください。最近、英訳も完成しましたので、まだ本にはなっていませんが、英訳も、中央協議会から入手することはできます。中央協議会のウェブサイトで公開されています。
この本の終わりの方に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」というカタカナが出ていますが、これは、みなさま、お聞きになったことがあるかと思います。「ヘイト」という言葉は「憎しみ」という意味です。犯罪になると、「ヘイトクライム」。スピーチに関する法律が最近できまして、軽犯罪になるとされています。
どうして、人間の心に、特定の人、あるいは集団を排斥し、憎悪し、できることならば、抹殺したいというような心が起こるのでしょうか。
「ヘイトスピーチ」が何であるかについて、この本は、非常に適切な説明をしております。
「ヘイトスピーチ」とは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動(せんどう)する言動のことです。(150ページ参照)
これは、日本でたびたび起こった、差別を通り越した、犯罪行為です。最近は、少し収まっているようですが、なくなっているわけではありません。
人を差別し、憎悪し、排斥するという、人間の心の問題が、特定の人にはあるが、われわれにはない、と言えるかというと、そうでもないです。わたしたちの中にあるが、わたしたちは、そのような心の動きに負けないで、頑張っているわけでして、でも、何かの拍子に、そのような心の動きが表に出てきて、言葉と行いになって出てくるかもしれないと思います。
そうすると、平和を実現するということは、実に大変なことで、わたしは良い、問題はないが、他の人は良くないから、平和ではないと、なかなか言えなくなってきます。
平和というのは、この社会の現実に原因がありますが、その現実を作り出しているのは、わたしたち人間の心の在り方です。

今日の第一朗読は、そのことを、わたしたちに教えているような気がいたします。
「この世から出る、悪い思い、それは、悪魔から出るものであって、ねたみや利己心があるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある」(ヤコブ3・15-16参照)。

わたくしは、仏教の教えを聞く機会がありましたが、仏教でも同じようなことを言っています。
人間の心には、悪い思いがあり、その中で、特に3つの毒、「三毒」ということを言っていまして、貪(とん)瞋(じん)癡(ち)という難しい言葉ですが、貪る心、ねたみ、憎む心、恨む心、相手のことを知ろうとしない、自分勝手な心というものが、人間を間違いに陥れているということです。
カトリックで言う、「原罪」という教えと同じか、よく似ていると思います。

平和旬間、それは、特に、平和について学び、平和のために祈り、そして、平和のための小さな努力を積み重ねることを学ぶための10日間です。
わたしたちが、自分の心を見つめながら、人々が被っている、苦しみ、悲しみ、辛さを、少しでも理解し、その人たちのために、何かをすることができますように。
何をしたら良いかということは、なかなか難しいことですが、よく祈り、よく考え、なすべきことをし、してはいけないことはしない、そのようなことから始めなければならないのではないかと思っております。

今日のこの機会に感謝しております。