教区の歴史

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2017年多摩地区平和旬間ミサ説教

2017年08月05日

2017年8月5日、主の変容の祝日前晩、町田教会

[聖書朗読箇所]

平和旬間を迎えます。この期間、わたしたちは特に、平和について学び、平和を実現するものとなることができるよう努め、そのための恵みを祈り求めます。

どうしたら平和を実現するものになれるのか。

それは主イエス・キリストに聞き従うことであります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と主なる神様が言われました。イエス・キリストは旧約聖書の教えの延長として現れ、そして律法を完成するものとして登場しました。

今日の福音では、旧約聖書の代表的な指導者であるモーセとエリヤが登場しています。モーセ、そしてエリヤたちによって伝えられた神の教え、神のみ心はイスラエルの人々にとって、どういうように理解されたのか。
わたしたち人間は神様のおっしゃることを充分に、まして完全に理解することはできないのであります。神様はその時、その人々が理解できる限りにおいてお話になったのかもしれない。
今日のわたしたちから見ると理解に苦しむ、あるいは、躓きになるような教えが旧約聖書に出てきます。その代表的なものは、カナンの征服に際しての、神の言葉ではないでしょうか。「聖絶」とされているのですけれども、聖というのは聖書の聖に、絶滅の、絶対の絶です。

申命記では、神は次のように言ったと述べられています。
「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」(申命記20・17)

サムエル記上では、もっとはっきりと恐ろしいことが言われている。
「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも、打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上15・3)

解釈が難しい箇所です。

イエス・キリストは、わたしたちが平和のために働くようにと命じられ、そういう人は神の子と言われると言われました。そして、わたしたちを理解しない、わたしたちを排斥する、わたしたちを憎む人々、いわば敵である人々を赦し、受け入れるようにと言われ、自分の言葉を実行しました。なかなかできないことではあります。
新約聖書の教えは使徒パウロも言っているように、「悪に対して悪をもってせず、悪に対して善をもって打ち勝ちなさ」(ローマの信徒への手紙2・17-21参照)ということであります。

先ほどの講話の中で触れましたが、最近日本で問題になっている差別の問題の中に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」という事件があり、「いのちへのまなざし」で取り上げられています。
「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです。」(150ページ)
差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。

差別とは実に根深い問題です。差別の心はわたしたちの心の中にあります。
今日のご変容を告げる福音で、天の父は言われました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
わたしたちは差別という問題を自分自身の心にある悪の問題としてとらえ、悪と戦うためには主イエスに倣い、主イエスに聞き従わなければならないのです。
明日からの平和旬間を迎えるにあたり、まずわたしたちは、わたしたちの間で平和を確立しなければならないのであります。わたしたちの間で、互いに赦し合い、受け入れあうという神の愛が実現していなければならないと思うのであります。

主イエス・キリストが罪深いわたしたちを癒し、導き、そして助けてくださるように祈りましょう。