千葉中央宣教協力体 聖体奉仕者・集会司式者研修会講話

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    2017年7月23日、西千葉教会

     

    (挨拶省略)

    2006年版幸田司教編集の「テキスト}(案)聖体奉仕者の仕事について、ご聖体を病人の方にお届けするときの、心構えや注意が述べられておりまして、大変心に響きました。

    今日はまず教会の奉仕者に共通となる基本的な心構えについてお話します。
    わたしたちの教会は、ナザレのイエスという人の、死と復活の出来事を体験した人々によって成立しました。復活したイエスに出会った人々が、その信仰を、次の世代に伝えまして、わたしたちの教会が成立し、発展してきました。
    わたしたちは、1年かけて、典礼歴によって、イエス・キリストの生涯を学び、ミサの中で、イエスの生涯を記念しています。特に、灰の水曜日から始まる四旬節、復活祭、その前の聖週間、復活節は、キリストの復活を記念する、大切な典礼を執り行っています。
    使徒パウロも、生前のイエスの弟子ではなかったが、復活したイエスに会って、電撃的な体験をして、イエスの弟子、イエスから遣わされた使徒となりました。それを、何度も、パウロは強調しています。
    ですから、教会は、イエス・キリストの復活を証言し、そして、復活のイエスが今も教会におられるということを、証する団体なのです。イエスは、地上を去るときに、「弟子たちに宣教命令を与え、世界中に行って、わたしの教えを宣べ伝え、守らせなさい。そして、わたしの弟子を作りなさい」と言われ、そして、そのときに、付け加えて言われました。
    「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
    去ることは去るが、世の終わりまで、あなたがたと一緒にいると言われた、この不思議を生きているのが、わたしたち教会なのです。
    復活したキリストが本当にわたしたちと共にいると、本当に人々に思っていただけるような、わたしたちでなければなりません。事実、「なるほど、そうだ」と思ってくれた人たちがいたので、教会が続いているし、わたしたちも信者になった訳です。
    復活したイエス・キリストがいつもわたしたちと共におられるということを、あらわし、伝える「しるし」が、わたしたちの教会です。
    その、「しるし性」というものが、あるときは、非常に明らかであり、輝かしい。あるときは、非常に弱くて薄い、よく見、よくよく聞いてみると、なるほど、そこにイエスがおられると思ってもらえるかもしれないが、表面的に見ると、とてもそのようには思われないというような在り様が、わたしたちの状態ではないでしょうか。

    今日の、年間16主日の福音は、良い麦と、毒麦(雑草)が一緒に伸び、育っている状態のことを言っていますが、わたしたちの教会が、正にそのような状態です。悪い点だけを選んで、そこだけ抜き取ると、良いところも一緒に取れてしまいます。いまは、同じ人間が両方に関わっています。両者は、いずれ分離するということかもしれません。
    そのような教会が、復活したイエス・キリストを宣べ伝えていのであり、そして、それは、わたしたちひとり一人が行っていることなのです。

    わたしたちは神の民です。神の民の中に、いろいろな役割、いろいろな立場があって、それぞれが、自分の役割、立場を大切にし、お互いに尊重しながら、全体として、イエス・キリストの仕事を継続させ、発展させ、また、教会全体が、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることをあらわし、且つ、イエス・キリストが行うことを行うということが、わたしたちの教会の姿であると思います。

    そこで、第2ヴァチカン公会議は、教会観というものを一新し、位階制を中心とした、教会の理解、縦構造の教会、教皇様がいて、司教がいて、司祭がいて、信徒がいて、別格に奉献生活者がいるというような理解をやめまして、キリスト信者全体が神の民であって、全員がイエス・キリストから呼ばれ、イエス・キリストの務めをそれぞれ行うという教会理解を前面に出しています。

    イエス・キリストの3つの役割は、旧約聖書から引き継がれた3つの役割であって、旧約聖書には、祭司、預言者、王という人がいて、それぞれが役割を担っていました。
    祭司は、神殿で「いけにえ」ささげる人、預言者は、神のことばを取り次ぎ、人々に伝える人、王は、地上において、神の御心を行い、弱い立場に置かれた人を守り、神の正義を地上に実現するべき人でした。
    しかし、大体の王は失格でして、ほとんど合格した人がいないというのが、旧約聖書の歴史ですが、この3つの役割を、ひとりの人、即ちイエスが、自分の中に受け取り、そして、具現させ、弟子たちに伝えたのが、わたしたちの教会です。

    さて、そのような教会の役割を2006年に作成された聖体奉仕者・集会司式者養成講座のテキストでは、「福音を宣べ伝える」、「賛美と感謝をささげる」、「愛の掟を実行する」という言葉を使い、非常に分かりやすく述べています。
    お互いに助け合い、且つ、教会の外に向かって、一人ひとりの人が大切にされるような社会の実現のために力を尽くすという、この3つが、わたしたちの役割であるということです。
    これが、旧約聖書の3つの役割を言い換えたものであり、福音を宣べ伝える預言職、賛美と感謝をささげる祭司職、愛の実践を行う王職、この3つはお互いに深く関わり合い、結びついていて、1つのことを忠実に行うならば、他の2つのことも必然的に、一緒に実行されることになると思います。

    今回は、千葉中央宣教協力体での聖体奉仕者・集会司式者の養成講座ということで、みなさんは、研修を行っています。既に学ばれたこと、今日お聞きになったこと、また、今日わたしの後で、福島神父様がお話になることは、重なることになるとは思いますが、聖体奉仕者・集会司式者は、教会の中での祭司職の実践に該当する役割です。
    しかし、それは同時に、イエスの福音を宣べ伝え、イエスの教えを実践することにもならないといけない。3つのことが、お互いに関わり合っているのでなければならないと思います。

    東京教区では、日曜日のミサが挙げられないという場合はあまりありません。ほとんどありませんが、千葉県ですと、安房上総宣教協力体では、既に、主日に、ミサに代わる主日のことばの祭儀を行っていると思います。

    こちらに、改訂新版の儀式書があります。まだミサ以外のときの、聖体拝領と聖体礼拝、主日に行われる集会祭儀のことは、あまり取り上げられていませんが、この儀式書で述べられていることがそのための基本になります。

    さいたま教区、仙台教区、札幌教区では、主日にミサを行うことができない、司祭に来てもらうことができない教会が、非常に増えていまして、主日を聖とするという教会の大切な掟を、どのように実行するかということが、重要な課題になっています。

    しかし、司祭を中心に考えると、司祭がいないと大変だとパニックになるかもしれませんが、教会全体が、イエスの死と復活を記念する時間を持つ、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合うことが大切なのです。
    わたしたちは地上のことに捉われて、日々、忙しく過ごしますので、特定の場所で、特定の時間、神様だけにささげる時間を持つということが、非常に大切です。それが、われわれの場合はミサですが、ミサが行われない場合も、それに代わって、みなさんで集まって、一緒に神を賛美し、聖書のことばを聞き、キリストの体を受け、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合う、ということは、非常に大切だと思います。
    もちろん、ミサに参加できれば良いのですが、いろいろな事情で行うことができない場合は、一緒に集まって、お祈りする。それは、立派に主日を聖化することになる。
    具体的に、どのようにするかということは、2006年のテキストでも、非常にきめ細かく書いてあります。

    その日にミサで読まれる聖書朗読、通常、第一朗読、第二朗読、福音朗読を中心に、主の日を聖化するということが、よろしいのではないでしょうか。その場合、福音の分かち合い、その福音と福音朗読の前に読まれる、第一朗読、第二朗読との関係が、どのようなものであるかなどを、一緒に考え、感想を分かち合うということも、大変良いことであると思います。

    以下、少し具体的なことをお話しします。

    集会司式者は、いま申し上げたように、ミサが行われないときの、主日の礼拝を担当する方です。そのような場合に、どのように実行するかということは、入念に準備し、且つ、練習もした方が良いと思います。

    聖体奉仕者ですが、通常のミサ中、聖体を授ける奉仕をするということが、一番行われていることですが、かつて、用語が混乱しました。たしか、特別聖体奉仕者と言っていたと思います。
    通常、聖体を授ける役割は、司教、司祭、助祭、その他、特別に任命された人、祭壇奉仕者もできるはずですが、そちらは、通常の奉仕者であって、それでは、聖体の奉仕者が足りない場合にお願いされた人が聖体奉仕者としたものの、『extraordinary』ということばを特別と訳したので混乱しました。
    しかし、その共同体で、お互いに必要を認め合って、教区でいえば、教区の司教、裁治権者が依頼という形になっています。
    ちなみに、聖体奉仕者は、申請があったら、裁治権者が承認するなり、委嘱するということになっています。

    司祭が、直接ご聖体をお持ちして、拝領して頂ければ良いのですが、だんだん環境的に難しくなってきましたので、司祭以外の方が、司祭から依頼されて、ご聖体をお持ちして、そして、短いお祈りをする。できれば、聖書の朗読をして、聖書のことばを味わいながら、ご聖体拝領をしてもらうということが、非常に大切だと、こちらのテキストには、そのことがよく出ておりますが、そのようにして、主イエス・キリストの復活を分かち合うということが、非常に大切だと思います。
    いま、具体的に、そのような役割を担っている方が増えていると思います。それは、大変良いことだと思います。

    昔、わたしが主任司祭をしているときに、ある男性が洗礼を受けまして、聖体拝領をしますが、どうも様子がおかしいので、調べてみたら、その場ですぐに拝領しないで、持ち帰って、家族を集めて、聖体奉仕職を自分で実行していたということがありました。
    とにかく、その場で聖体拝領をしていただかないといけない。どうして、いけないのかとも思いますが、もしかしたら、教会がいろいろな経験をして、『その場でご聖体が拝領されるか見届けなさい』という教えになってきたのかもしれません。
    いまでも、ときどき、持ったまま行ってしまう人がいますので、万が一、間違えて与えてしまった場合でも、別の場所へ持って行かれると困るので、とにかく拝領してもらうことに、最近はしています。

    さて、その聖体拝領について、ときどき苦情が来ます。
    なかなか難しいのですが、日本の教会は、確か、1970年ごろ、公会議が終わって間もなく、教皇庁に申請して、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化であるので、口ではなくて、手で拝領できるようにしてもらいました。

    また、日本の司教協議会は、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。
    中には、ひざまずかないといただきたくないという方がいます。こちらは、まだトラブルが終わっていません。
    日本の司教協議会が、2014年に教皇庁典礼秘跡省に申請して、認証を受けた、『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』は、みなさんのところに渡っていると思います。こちらで、はっきりと述べているのですが、ミサ中の拝領のときの姿勢は、日本では、原則として、立って拝領することとします。一同が同じ姿勢で拝領することによって、会衆の一致をしるしとしてあらわすことができるからです。また、拝領の行列が円滑に流れることにもなります。ただし、ミサを行う場所によって、立って拝領することが不自然である、また、健康状態が良くない、その他、理由があれば、立った姿勢ではない姿勢、場合によっては、ひざまずいた姿勢でも、拝領することができます。
    この日本に向けた指針には「拝領の姿勢は司教協議会で決めなさい。しかし、ひざまずいて聖体を受けることを希望する信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない」、「ひざまずいては拝領させない、ということはしてはいけない」ということが、教皇庁の通達に書いてあります。

    カテドラルで、わたしのところに行列ができて、聖体を受けるときに、こちらが言う前に、ひざまずいて、口を開ける方がいますが、そのような場合に、わたしは立たないとあげないということはしません。そこで、行列が止まってしまいますが、カテドラルは広いですから、それほど支障はありません。
    しかし、狭い教会などで、その人がひざまずいて、みなが静まり返り、みなが見守っているという状態では、典礼の中ではふさわしくないように思われます。
    ひざまずいて、聖体拝領をしてはいけないというわけではありません。自分は、ひざまずかないと聖体拝領したくないという人に対しては、間違っているから聖体をあげないと言ってはいけない。

    もう一つ、聖体奉仕者と集会司式者で、せっかくみなさんが、こうして研修を受け、任命されても、役立てる機会がないということを聞きます。もっと、いろいろなことをしていただけるようにしていかなければならないと思います。
    少し飛躍しますが、勇気を出して言いますと、司祭でなければできないこと以外のことは、できるだけ、していただけるようにしたら良いと思います。
    たとえば、葬儀です。葬儀の中で、ミサは司祭でなければできない。しかし、それ以外のこと、ほとんどできます。もちろん、助祭がいれば、助祭がします。
    お通夜は、たしか、長崎教区では、信者が多いので、お通夜に司祭は行かないと聞いています。ましてや、カトリックの国では、お通夜というものは、はっきりとした習慣として確立されたものではありません。みなが集まって故人をしのんで、お祈りします。

    司祭は、お通夜と葬儀で2日間使わなくてはなりません。黙想会などの最中でも、途中で帰って行って、それっきり戻ってこないということになります。亡くなった後、棺にお納めし、お祈りし、葬儀までの間の数日間をどうするか。それに、全て司祭が毎日直接関わっていたら、他のことができなくなります。
    司祭でないといけないという思い込みは、やめなければなりません。葬儀で、司祭以外の方ができることは、どんどんしていただきたいと思います。

    ご聖体拝領については、先ほど言いましたように、できれば、ミサ中は、行列の中で、立った姿勢で、手で受けていただきたいのですが、どうしても、行列の中にあって、途中で、自分だけがひざまずいて受けたいという場合は、その神父様の判断で、狭いところ、込み合っている場合は、できるだけ立っていただいていただきたい。しかし、言うことを聞かないとあげないというような、高圧的な扱いをしていただいては困ります。

    ヨハネ・パウロ二世になってから、聖体拝領を同じ日に2回しても良いということが、はっきりと言われるようになりました。いままでは、聖体拝領を1回しているから、ミサには出ても、2回目はしないということでしたが、いまは、結婚式のミサや他の趣旨のミサのときに、既に聖体をいただいているから、今回は受けないという必要はありません。受けていただいて結構です。

    聖体奉仕者・集会司式者の奉仕を行う人は、日々の生活の中で、イエス・キリストの教えを実行するように努めていただきたい。
    特に、人間のいのちを大切にするということと、平和を実現するために働くという、キリスト者にとって、非常に大切な務めを行うようにしていただきたいと思います。

    今年の平和旬間は、《こどもと貧困》というテーマになりました。『こどもの貧困』ということにしようかと思いましたが、子どもの貧困だけではなくて、子どもの貧困ということも入れながら、日本において、貧困というものが、どのような問題になっているか。そこから発して、世界中に存在する、貧困という問題を見ながら、わたしたちに、この問題をどのようにしたら良いのか、どのようにしたら、この貧困の解消のために、働くことができるかということを、分かち合う機会にしていただきたいと思います。

     

    では、わたしの話は以上にいたしまして、後は、日頃から言いたいと思っていること、聞きたいと思っていることがおありでしたら、どうぞ。

    会 衆:
    聖体拝領の姿勢についてですが、できるだけ、このようにしてくださいというように、アドバイスをしておいた方がよろしいでしょうか。

    大司教:
    ほとんどの教会では、分かってくれていると思いますが、中に、ことばの通じない、外国から来られた信者で、自分の国ではそのようにしていたので、こちらでもそうしたいという方がいるかもしれません。
    日本の司教協議会は、聖体拝領のときは、原則として、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。また、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化があります。でも、もし、ひざまずいて聖体拝領をしたいのであれば、司祭は、頭からはね付けることはせず、その人の希望にどのように応えられるかを考えてくれるだろうと思います。けれども、他の人も聖体拝領をするのだから、できればそのようにしていただきたい。
    しかし、日本は、非常に多国籍化していて、他のことばによるミサのときに、どのようにしているのか、わたしはあまり経験がありませんが、六本木のチャペルセンターのミサでも、ひざまずいて、口で受けるという人はほとんどいません。外国ではどのようにしているのかと聞いてみると、正確ではありませんが、ミサ中、ひとりひとりひざまずいて、口で受けるとなると、授ける方も大変なので、だんだん行列の中で、手で受ける人が増えているとのことです。
    わたしが、何年か前にパリ外国宣教会の創立のお祝いでフランスに行ったとき、ミサ中、聖体拝領をする人を見ていましたが、大体が手で受けていました。
    どうしても受けたいという方を、拒んではいけない。どのようにして聖体を受けるかということよりも、教会の中で、イエス・キリストの交わりをともにするということが大事なのであって、ご聖体拝領の仕方が理由で、兄弟の交わりが壊れてしまうことのないようにしましょうと思っています。

    わたしたちは、自分とは違う考え方の人に、どのような反応を示すか。それは、反射的にそのようになっているので、自分では気付きません。相手がどのように感じているかということには気付きませんが、カトリック教会、普遍の教会、いろいろな文化、習慣、言語、民族を包含することによって、教会が発展してきたわけであって、日本のような小さな共同体の中で、いま、いろいろな国から来ている信者の方がいますので、具体的なことについて、なお話し合って、大体このようにしようではないかという合意を、更に作っていく必要があるのではないかと思います。

    自分だけが本物で、他の人が間違っているということはありません。自分の中にも雑草が茂っています。雑草を取ろうとすると、自分自身が壊れてしまいます。しばらく、お互いに我慢しましょう。

    会 衆:
    趣旨の違うミサの場合、1日のうちに複数回聖体拝領をしても良いということでしたが、同じ趣旨であれば、やはり、だめということでしょうか。

    答 え:
    主日のミサの場合、同じミサに何度も出たいということがあるかもしれませんが、その場合、いままでは、最初からだめだったのですが、同じ主日のミサでもできると思います。
    日曜日に、他のごミサがある場合、ご聖体拝領ができるかという問題がありましたが、それは、問題ありません。
    しかし、主日のミサの場合、なぜ、同じ日に2回出るのか、その動機が分かりません。

    会 衆:
    こちらは、7時半と9時、更に英語のミサがあります。わたしの場合には、少なくとも2回出る可能性が、大いにあります。

    大司教:
    それは、自分のためですか。

    会 衆:
    英語のミサは自分の担当になっています。

    大司教:
    担当であるとか、当番であるという場合には、聖体拝領をすることができます。ただ、いわゆる自分の信心で、1回よりも2回出た方が良いというような場合は、聖体の意味を間違えて理解していると思います。1回で十分です。

    会 衆:
    病者にご聖体を持っていく場合に、ひとりの人のところに、ふたりが訪問した場合、みなで分かち合った方がよろしいということで、みなでいただくのですが、既にミサに与っていた場合、2回目の聖体拝領になりますが、そのような場合はいかがでしょうか。

    大司教:
    ミサに与った後に、ご聖体をお持ちした場合、持って行った人は、既にミサで聖体拝領をしていて、今度は病人の方にご聖体を授けるときに、自分たちも一緒にもらって良いかということですか。

    会 衆:
    はい。最初はいただいていませんでしたが、神父様がみなで分かち合った方が良いとおっしゃいましたので、いただくようになりました。

    大司教:
    いままでは一緒にいただきませんでしたが、一緒にいただくという考え方もあるのでしょうね。そうかもしれないという気もしますが、その件については、回答を保留いたします。だめというわけではありませんが、問題ないとも言い切ることができません。

    会 衆:
    教会法など、いろいろなことがありますが、1日に2回ご聖体をいただくことができるのは、ミサの形であればということであったと思いますが。

    大司教:
    そうですね。ミサというのは、ご聖体をいただくことが基本なので、従来は、既にいただいているから、遠慮しますというようになったと思います。
    更に昔は、ご聖体への畏敬の念により、ご聖体から遠ざかっていましたので、年に1回は聖体拝領をしなさいとおふれを出さなくてはならないほどになってしまいました。
    最近は、簡単にご聖体を受けすぎることが問題となっていますので、ご聖体を受けるということが、どのような意味なのか、もう一度、確認する必要があるかと思います。
    ところで、ミサというものは、ひとりで挙げるものではないと思います。
    ひとりでミサを挙げることが、イエスの定めた最後の晩餐の記念の趣旨に合っているのであろうかと思いますが、ミサというのは、共同体の行為ですので、ミサ以外の聖体拝領ということは後から行われるようになりました。最初は、ミサに与らない人のために、ご聖体を運ぶというところから始まりましたので、ミサに出た人は、一緒にいただかなくてもよいのではないかと思いますが、すこし考えさせてください。