高円寺教会堅信式説教

2017年7月16日、年間第15主日、高円寺教会

[聖書朗読箇所]

今日はこれから堅信式が行われます。堅信の秘跡は、洗礼を受けて神の子となった人々に、生涯にわたってイエス・キリストの弟子として歩み続けるための恵みを授ける秘跡であります。

さて、今日の聖書朗読、福音朗読から、わたくしが感じておりますことを申し上げて、堅信を受けられる皆さん、そして、ミサに参加しておられます皆様の参考に、励ましにしたいと考えております。
わたくしは、ミサのときに読まれる聖書の教えと日々のわたくしどもの生活、そして社会の状況とのつながりというか、関わりはなんであるかということをいつも考えております。
先日目にした非常に興味深い新聞の記事がありました。それは、指導者、リーダーというものはどういう人であるべきか、ということについて、江戸時代の専門家の田中優子さんが述べている記事であります。
田中さんは江戸幕府を創設したのは徳川家康という人について述べています。この人についての評価は、最近高まりつつあるのでしょうか、印象としては、従来はあまり人気がなかったですが最近再評価されているのかもしれません。
この人が心がけたことは、「急がない」ということと「待つ」ということだそうです。「待つ」と「急がない」と同じことでしょうが、指導者というのは、理想、目標を掲げて、その目標に向かって人々と共に歩む人だそうです。目標がないといけない。そして、強制したり脅したり、力づくで人を動かすのではなくて、人々が理解してくれるように、納得してくれるように、忍耐強く待つ人だそうです。

さて、人間の指導者がそうであれば、全知全能の神様はまして、忍耐強くあわれみ深い方であるに違いない。わたしたちの神は忍耐強く、あわれみ深く、怒るに遅い、いつくしみの神であります。

今日の福音のたとえ話は、イエスご自身がこのたとえの意味を解き明かしております。神の言葉、御言葉は全ての人に届けられます。神の言葉を聞く人の心の状態は様々です。ある人は道端のような状態、ある人は石地のような状態、ある人は茨に覆われた状態、ある人は良い土地になっている。わたしたちはそれぞれどの状態でしょうか。茨に覆われた土地というのは、様々な思い煩いあるいは誘惑で心が囚われている人であります。そういう人のところに神の言葉が蒔かれても、それを受け取り、そして実らせる準備がまだできていない。良い土地に蒔かれますと、実りがあります。30倍、60倍、100倍の実りがもたらされる、とイエスは述べております。

今日の第一朗読はイザヤの預言。このイザヤの御言葉はわたしたちに希望を与えてくれます。
わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

この御言葉、神はお望みになることを成し遂げ、そして、人々に与えた使命を必ず実現させる、と力強く宣言しております。

堅信を受けられる皆さんは、この神の呼びかけを受けて、そして、神様の計画の実現の一端を担うものとなるのであります。皆さんの状態、神の呼びかけを受ける状態は、豊かな実りをもたらすのにふさわしい状態になっているでしょうか。
大体、100%オーケーという人はいないですね。100%まるで準備ができていないという人もいない。何パーセントかというのは分からないのですけれども、全ての人に、神の呼びかけを聞き、悟り、そしてそれを行う可能性があります。神様は、ご自分の呼びかけを聞き取りそして実行する日が来ることを信じ、そのために恵みを与え、そして、いつまでもいつまでも待っていてくださる、そういう方ではないかと思います。

教会の使命、それは、福音宣教、福音化ということでございます。わたしたちは精一杯この使命に取り組んでおりますが、なかなか実を結ばないような気がしている。
いや、人々には見えないけれども、もう実を結んでいるのかもしれません。その時が来れば誰にでもはっきり分かるような神の国の到来のしるしが現れるのではないかと思います。

わたしたちの神は忍耐強く、いつくしみ深い。その神様のみ心を完全に実現し実行された方が、わたしたちの主イエス・キリストであります。

今日皆さんの心に蒔かれる福音の御言葉は必ず力を発揮し、そしてこの日本の社会において豊かな実を結ぶことになる。この信仰と希望をもって、堅信式を行い、堅信式を受けていただき、堅信を受けた皆さんは、堅信のときの決意を新たにしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ55・10-11
第二朗読 ローマ8・18-23
福音朗読 マタイ13・1-23

(福音本文)
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。
だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

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