茂原教会ミサ説教

2017年7月9日、年間第14主日

[聖書朗読箇所]

イエスは言われました。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの弟子である、わたしたちも、同じように、疲れている者、悩んでいる者、困っている者に向かって、「どうぞいらしてください。わたしたちが助けになりましょう」と言いたいところですが、これが、なかなか難しい。

わたくしは、カテドラルから本郷の教会まで小一時間、歩いて行くことがあります。途中、カトリックでない教会があります。その教会の看板に、この言葉が書いてある。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。」
本郷のカトリック教会にたどり着いてみると、看板に同じことが書いてある。

いろいろな方がおられて、相談に見えますが、何とかして差し上げたいけれども、できないこともある。できないことの方が、多いかもしれない。
安請け合いをして、「何でもしてあげるよ」というわけにはいきません。
わたしたちは、イエスではない。イエスの弟子です。弟子というのは、先生のようになる修行をしている者です。
でも、先生にはたどり着けない。たどり着けないが、ほんの少しでも、見習いましょうというのが、弟子だと思います。

イエスは更に言われました。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29)
これは、イエスがおっしゃったので、わたしたちは「なるほど」と思うかもしれませんが、わたしには、とても、自分がそうだ、柔和、謙遜な者だ、とは言うことができない。
でも、イエスはそのように言ったと、聖書が伝えています。

「柔和、謙遜」というのは、どのような人なのだろうか。山上の垂訓でも、イエスは「柔和な人は幸い」(マタイ5・5)とおっしゃいました。

「柔和」というのは、穏やかで優しいことでしょう。
他方、柔和すぎて、いろいろなことを責任持って引き受けたり、決めたりできないという人がいる。誰かが何を言っても、「はい、そうですね」と答える。これは駄目です。
駄目なことは駄目と、言わなければならない。決めるべきことは、決めなければならない。いけないことは、いけないと言わなければならない。
ですから、「柔和」ということは、優柔不断、責任逃れ、誰にでも適当なことを言うということではない。「柔和」ということは、自分の欲望や自分の気持ちを、いつでも正しく制御することができる人でしょう。思い通りにならなくとも怒ったり、いらついたりしない人だと思います。

それでは、イエスは怒ったことがないかというと、福音書を読むと、そうでもない。
ファリサイ派の人や律法学者には、激しい言葉で非難している。ですから、イエスという人は、ただ優しいだけの人ではなかった。はっきりと、いけないことはいけないと言ったために、十字架につけられるようになりました。

わたしたちは普通、自分のことで、自分の思い通りにならないから、文句を言う。自分が正当に評価されないから、不快に思ったり、怒りを感じたりする。自分が辱められたとか、認められなかったからといって、怒ってしまう。このような人は、柔和な人ではない。
他方、弱い人が苦しめられているとか、社会に不正があるというときに、それではいけないのだと、そのようなことは許されないのだと叫ぶことがあります。この場合の怒りは、当然の怒りであり、「柔和」とは矛盾しないと思います。

気が弱い人はあまり大きな声で怒ることはしていないと思いますが、心中、不快に思うことはしょっちゅうあります。不快と怒りは、あまり違いありません。口に出しては言わないが、心の中では思っています。なかには、心で思ったことを、すぐに言動で示してしまう人がいます。

自分の言うとおりにしないから、怒って大きな声を出すというのは良くないが、その人のために、「こうしなさい。これはいけない」と丁寧に親切に諭すことは、そうしないといけないのだと思います。

誰にとってもつらいことの中に、「相手に注意を与えると」いう仕事があります。相手がしていることに「問題ない」ということは簡単ですが、「あなたがこのようにしているけれども、それはやめなさい」とか、「こうした方が良い」と言わなくてはならない場合がある。それは、あまり楽しいことではない。
相手が不快に思うことでも、言わなければなりません。言わないと、どんどんその人は悪くなる。
特に、そのような立場にある人、親は子どもに対して、そのようにしなければならない。子どものときにしつけないと、大きくなってからは手遅れということになる。
教師、医師、司祭、司教などは、もっとそうしなければならない。

一番つらい仕事は、人に注意することです。注意するのなら、早めに、きちんとすれば良いのですが、一日延ばしにして、最後にまとめてするというのは、あまり良くないのかもしれません。

イエスは、柔和で謙遜な者で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負いなさい」と言われました。軛は、御者が牛や馬の首に着けて、仕事をさせるために使う道具です。
大工であったイエスは軛作りの名人だった、という伝説あります。イエスの作った軛はその馬や牛の体にぴったりと合ったそうです。合わなければ痛いのですが、合えば喜んで仕事ができるようになる、ということです。

わたしたちが人に軛を与えるときは、その人が嫌がって苦しむようなものを与えてしまうかもしれないが、イエスがわたしたちに与えてくださる軛は、その人にぴったりと合っている。その人に合った軛が、どのようなものなのか、その人のことを愛し、その人のことをよく分かった上で、「こうした方が良い。こうしなさい」ということになるのだろうと思います。

さて、わたしたちの教会は、罪人の集まりであり、物が、まだよく分かっていない者の集まりで、お互いに不完全ですが、イエスが、わたしたちに聖霊を送り、そして、聖霊の助けをもって、わたしたちが軛を負って、歩むことができるように、助けてくださっていると思います。
今日の第一朗読は、ゼカリヤの預言で、ロバに乗ってくる王の話です。柔和、謙遜な僕を伝えています。
わたしたちも、難しいですが、柔和で謙遜な者として、お互いに助け合い、仕え合うことができますように、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ゼカリヤ9:9-10
第二朗読 ローマ8:9、11-13
福音朗読 マタイによる福音書 11:25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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