赤羽教会堅信式説教

2017年7月2日、年間13主日、赤羽教会

[聖書朗読箇所]

赤羽教会のみなさん、今日、年間第13主日を迎え、この説教の後で、堅信式が行われますが、いま読まれました、マタイによる福音の言葉を聞いて、ご一緒に味わいたいと思います。

さて、イエズス様のお言葉は、非常に厳しいものであり、受け取りにくい、分かりにくいと感じるかもしれません。
また、わたくしが申し上げることが正解だから、そのように思いなさいと言うつもりはありません。
ただ、わたくしが、どのように感じているかということを申し上げて、みなさんの参考にしていただきたいと思います。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。
「父や母を敬いなさい。大切にしなさい」という掟は、聖書の大切な教えであり、わたしたち、キリスト教徒ばかりでなく、どのような宗教でも、あるいは、どのような国においても、大切なこととされています。
しかし、父母を敬うということと、イエス・キリストに従うということと、一緒に考えると、どのようなことになるでしょうか。

イエス・キリストに従うために、父や母への、昔の言葉で言えば、『親孝行』をやめなければならないのか。お父さんやお母さんに従うと、イエス・キリストに従うことにならないのか。両方は一致するのか、しないのか。そのようなことを、ふと考えます。

わたくしも、若いときに、この問題を持ちました。親の言うとおりにすることと、司祭の道に入ることは、一致しません。おそらく、ほとんどすべての司祭、あるいは、修道者は、召命を受けたと思ったときに、このような悩みを持ったかもしれない。
わたくしは、たとえ、父母の賛成や理解が得られなくとも、イエズス様が呼んでいるのだから、そちらに行くと決めまして、そのようにしましたが、後に振り返ってみますと、わたしが、司祭への道を歩んだために、両親、家族が、どのような思いを持ったか。あるいは、どのような苦労をすることになったのかということが、だんだん分かってきました。

そのときは、あまり考えなかった。そして、イエズス様が呼んでいるのだから、イエズス様に従う。そのように思ったわけです。
しかし、そのときの自分の心を振り返ってみると、そちらのほうが、自分にとっては魅力のある人生でした。いろいろと勉強もできるし、地上のいろいろと面倒なことはしないでも済むからです。
しかし、本当に、神様のみ心に従って、歩もうと思ったかどうか、もう遅いのですが、自分の隠れていた思い、自分がこのようにしたい、あのようにしたいという思いが心の中にあって、でも、それはあまり表には出さないで、イエズス様が呼んでいるからということにした部分がなかったのか。それは、神様にしか分かりません。

いまになってみると、いろいろな人生の苦労を背負って、生きていくということは、大変なことです。みなさま、日々それを体験していらっしゃると思います。
好きな勉強ができるとか、お祈りができるということだけが、大きな動機であったとしたら、それは、自分勝手な決断であったことになります。
「わたしに従う人は、自分の十字架を担ってついて来なさい」とおっしゃいました。
楽しいから、好きだから、そちらの方へ行くということだけでは、不十分な動機になります。

わたしたちは、神様のみ心に従って生きる。そのためには、苦しみというものをお献げしないといけない。神のみ心を求めて誠実に生きる人は、必ず自分の十字架を担うことになります。その十字架を、喜んでお献げしなければならない。いつも、文句不平を言っているようでは、イエスの弟子となったことにはならない。そのように、最近、強く思っております。

洗礼を受けるときに、洗礼は何であるかということを、学ばれたと思います。洗礼を受けるということは、本来は、水の中に沈められるという式でした。全身が、水の中に浸されて、それから引き上げられるという式でした。だんだん象徴的な式、額に水を掛ける式に変わってきた。「父と子と聖霊の名によって、あなたに洗礼を授けます」という言葉と、水を掛けるという行為で成り立つようになりましたが、もともとは、全身を水の中に浸してもらうということでした。
それは、『死ぬ』ということを意味していました。『わたしは死にます。罪に死にます。この世の欲望に対して死にます。古い人にさよならを言って、新しい人になります』という意味です。
しかし、新しい人になるということは大変なことで、日々苦しみを担うことになります。

さて、堅信を受けられるみなさんは、更に、イエス・キリストを宣べ伝えるという使命を受けることになるので、まず、自分の信仰を自分の言葉で言い表してください。
「それは神父様に聞いてください」というのでは、だめです。自分で言わなければならない。『誰を信じていますか。その人は、どのような人ですか。自分にとって、その人は誰ですか。』ということを、言わなければならない。もちろん、そのような場面が来たときに、ということです。

それから、わたしたちの信じている救い主、イエス・キリストの教えを守って、実行しなければなりません。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」。
自分に挨拶をしてくれる人に挨拶をしたところで、それが何になりましょう。それは、誰でもしています。自分に挨拶をしない人に挨拶をしなさい。自分を憎む人を、自分の敵を大切にしなさい。そのような教えを、わたしたちは聞いています。それを実行することは易しくない。
ですから、神様は、イエス・キリストを通して、聖霊を注ぎ、そして、神様の愛を人々に表し、伝えることができるようにしてくださいます。
堅信式、それは、聖霊の賜物を授かる秘跡です。どうか、今日のこの喜びを生涯思い起こし、大切にしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 列王記 下 4:8-11、14-16a
第二朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-4、8-11
福音朗読 マタイによる福音書 10:37-42

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

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