アレルヤ会総会ミサ説教

2017年5月31日、聖母の訪問の祝日(復活節第7水曜日 )
カテドラル地下聖堂

[聖書朗読箇所]

今日、5月最後の日の31日は、聖母の訪問の祝日です。
マリアは天使のお告げを受け、「お言葉通り、この身に成りますように」とお答えしたそのすぐ後、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とルカの福音が述べています。
今まで何気なくこの個所を読んできましたけれども、ふと、ここで立ち止まると、これはどのようなことなのだろうかと考えてみました。

マリアは、ナザレに住んでいました。ナザレという所から、ユダの町を通って、ザカリアの家に入って、エリザベトに挨拶した、とルカの福音が言っています。
すると、ザカリアの家はどちらにあるのか。エルサレムから、更に先の方です。距離はどれ位あるのか。どのようにして、そちらまで行ったのか。ひとりで行ったのか。誰かが一緒だったのか。・・・福音書には何も書いてありません。
ここでルカの福音が語る《善いサマリア人の話》を思い出します。旅人がエルサレムからエリコへ下る道で追い剥ぎに会って、半死半生の目に合ったという出来事です。(ルカ10・30-36)参照)そのような危険に出くわすかもしれないエルサレムへの道を若い女性が、一人でどのように通過したのだろうか、と考えてしまします。
そのようなときに、どのように説明されているのかということを調べると、著者はあまり、そのことは気にしていないようです。ある人は、「これは後から作り上げた伝説である」と、そのひと言で片付けてしまいます。

「あなたは救い主の母になるでしょう」、と言われて、マリアは、
「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。
非常に、重大な瞬間でした。その後、すぐのことのようです、彼女はて旅立つって長い間故郷を留守にするわけです。誰かと相談して決めたのでしょうか。
そもそも、ヨセフという人との話し合いは、どのようになっていたのか。あるいは、マリアの家族はどうであったのか。エリザベトは親戚でした。洗礼者ヨハネの母になるわけですが、妊娠して6か月経っているということです。
聖書に出ている地図から、おおよその距離を測ってみると、100キロメートルは優にあると思います。歩いて100キロメートル移動するとしたら、何日位かかるでしょうか。
「ヨセフとマリアとイエスの一家は、毎年、過越しの祭りのために、エルサレムまで巡礼していた」(ルカ2・41参照)と出てきます。その巡礼のときにイエスは行方不明になった。親類や知人の間を探し回ったどこにも見当たらなかった。三日の後やっと両親はイエスを神殿の境内で見つけたのでした。
この話から分かるように、何日もかかって、ナザレからエルサレムの間を巡礼するわけです。往復するわけですから、かなりの日数を使っていたと思います。
エリサベトの家は更にその先なのですから、本当に身軽に、長い道のりを出掛けて行って、エリザベトの家に到着することになりました。

わたしたちは、マリアという人を、どのような人と考えているのか。そのイメージはどのようなものであるか。まだ、イエスを産む前の、少女と言って良い、ナザレという寂しい集落で生まれ育った少女は、どのような人であったのか。
この場面から考えるに、非常に決断が速いし、行動する人であったというように思われます。

更に、今日のルカの福音に出てくる「マリアの賛歌」、これは、教会が非常に大切にしているお祈りでして、教会の祈り(聖務日課)の晩の祈りで、毎日唱える祈りです。
最初の言葉は、ラテン語で「マグニフィカート」と言います。これは「あがめる」という意味の言葉です。
この中で、何が言われているかと申しますと、丁寧に読んでみると、福音的と言うのか、あるいは、革新的と言って良いのか、そのような内容が述べられている。
「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
即ち、「当時の社会の在り方は、神様のみこころに適っていない。いわば、当時の社会の在り方をひっくり返さなければならない」、と言っています。
人々を押さえつけ、締めつけ、そして、搾り取っている、支配階級の人たち、そのような人たちは、引きずり下ろされなければならない。貧しい人、飢えた人が大切にされ、そして、権力ある人、富んでいる人は、その力をしない、低くさえなければならない。「それが神様のみこころですよ」と言っているようです。
日頃、意識してそのように、この祈りをしていないかもしれないが、実は、少女マリアを通じて、神様が告げられたこと、それは、「いまの社会の状態は、神様のみこころに適っていない。いまの支配階級の人は、神様のみこころに適っていない」と宣告していることになります。
今日の第一朗読の言葉も併せて、考えてみましょう。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ロマ12・9)
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う。これは、易しいことではないと思います。わたしたちが、すぐにできることは、人を見下すことでして、相手が駄目だという判断は速いのですが、相手を優れた者と思うことは、なかなかできないことです。
人の欠点を見つけることは得意ですが、人の良い所、優れた所を見つけるということは、わたしたちは、あまり得意ではない。

「いつくしみの特別聖年」がありました。昨年の11月20日に終了しましたが、フランシスコ教皇は、何度も繰り返し、「どのような人にも与えられている、神様の似姿、神の美しさ、神様の恵みを認め、それを尊重するようにしなさい」と言っておられます。
今日は5月31日、聖母マリアを祝う日ですが、今日の福音から、おとめマリアが、この聖書の教え、旧約聖書を貫いている、あわれみの神の教えに、深く分け入った人ではなかったかということを、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ12:9-16b
福音朗読 ルカによる福音1:39-56

(福音本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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