日本カトリック管区長協議会2017年中ミサ説教

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    2017年5月19日(金)、復活節第5金曜日
    御聖体の宣教クララ会修道会中軽井沢修道院

    [聖書朗読箇所]

    (説教の要旨)
    ことしの総会のテーマは「宗教改革500周年を迎えて」となっています。わたくしは司教協議会でエキュメニズム部門を担当しておりますので皆さんから招待を受け昨日午後からですが参加いたしております。

    本日の福音朗読、ヨハネによる福音15章で主イエスは言われました。
    「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15・16-17)

    わたしたち司祭、修道者は主イエスの呼びかけを受け、呼びかけに答えて、選びを受けて、いま司祭、修道者の召命の道を歩んでいます。実は宗教改革者となったマルティン・ルーテルも熱心な修道者でした。

    ちょうど500年の1517年、修道者マルティン・ルーテルは当時のカトリック教会の在り方を批判する95箇条の提題を発表しました。この出来事が宗教改革の発端となったのです。
    マルティン・ルーテルはアウグスチヌス会の修道者でした。かれは熱心に祈り、苦行を行い、また聖書の勉学に励みました。
    ご存知のようにルーテルはのちに原文から聖書のドイツ語に翻訳した最初の人です。彼の翻訳に採用されたドイツ語はドイツ語の統一に大きな貢献をしたといわれています。
    それはともかく、彼はどんなに祈っても、自分の救いの確信、個々の平安を得ることができませんでした。
    そのような状態で聖書の講義を行うことは彼に大きな苦悶をもたらしたのです。どんなに努力しても心の中の不安消えない。神に喜んでいただけるような清らかで罪のない自分にはなれない。
    そのような嘆きのなかであるとき、ある聖書の言葉があたかも天啓かのように彼の心に響いてきました。それが、神は罪人の罪を覆い罪を赦し、義と認めてくださる、という「義認」の教えの根拠となりました。
    神は罪のある人をそのまま赦し受け入れてくださるという信仰に入ることができたのです。(1)

    さて第二ヴァチカン公会議を経て、カトリック教会とルーテル教会との間に対話が始まり、50年の期間を経て、今日では「義認」の教えについては、基本的の両者の間に合意が成立しています。強調点の違いや言葉の使い方の違いはあります。しかし、次の信仰理解において違いはありません。
    人は神の神による罪の赦しを信じることにより神から義とされるのです。信仰は神の恵みです。神の恵みなしに人は救に入ることができません。信仰も神の恵みによって与えられるのです。

    ところで「罪」という言葉の理解には微妙な違いがあることが明らかになりました。ルーテルは、洗礼後の人間の中に残っている欲望(concupiscentia)自体を罪とみなしていました。
    カトリックでは「罪」とは主体的な神への反抗と考えますので、欲望自体は厳密な意味の罪とはみなしません。しかし人間には罪への傾向が残っています。
    乱れた欲望は罪の原因となりますので、人は絶えず祈りと犠牲をもって悪と戦い、自分を聖霊の導きのもとに置かれていなければならないのです。人の生涯は聖霊の導きによる罪との戦いです。(2)

    欲望を完全に制御することは困難です。義人も日々小罪を犯すと言われます。「自分には罪がない、と言うなら、自らを欺いており、…神を偽り者にすること」(一ペトロ1・8-10)になります。日々唱える主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください」はわたしたちの心からの真実の願いであるはずです。
    そうではあっても人は既に死から命へ、神の恵みの中に置かれていると、わたしたちカトリック信者は信じています。

    ところでこの機会に一つ皆さんにお願いがあります。
    最近日本の司教団は「『命へのまなざし』増補新版」を発表しました。英訳もあります。是非皆さんに読んでいただき、さらに多くの人に読むよう、勧めていただきたいのです。
    とくに「子どもの貧困」という深刻な問題に注目していただきたい。よろしくお願いします。

     

    (1)徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書)によると、それは詩篇31編2節と72編2節にある「あなたの義によって私を解放してください」であるという。ここでいう義(Justitia)とは神の正義による断罪ではなく神の恵みによる救いを意味し、イエス・キリストの十字架による贖い、神におる解放と救いを意味していると彼は考えた、という。

    (2)『義認の教理に関する共同宣言』(教文館)を参照。