世界召命祈願の日ミサ説教

2017年5月7日、復活節第4主日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

今日、世界召命祈願の日、懸案のジョセフィーヌの鐘の祝福もすることができ、このように、みなさまとご一緒に、召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。

5月はマリア様の月と言われておりますが、3月、4月を振り返りますと、叙階式の多い月でした。
わたくしは、司祭に叙階する叙階、助祭に叙階する叙階を数えますと、5回行いましたが、そのたびに、特別な思いを抱いてきたのです。
それぞれの人が、イエス・キリストの呼びかけを受け、そして、司祭になると決心した。そして、多くの人の祈り、導きに支えられ、長い年月の研修を経て、司祭となる。本当に、これは実に大変なことです。

みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト4・10)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1・6)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。
イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。
しかし、東京教区も、他の教区も、修道会も、本当に、司祭召命の問題に直面しております。どうか、みなさん、司祭の召命のためにお祈りくださるように、そして、必要な助けを与えてくださるように、お願いいたします。

今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・14a、36-41
第二朗読 一ペトロ2・20b-25
福音朗読 ヨハネ10・1-10

(本文)
〔その時、イエスは言われた。〕「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

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