受難の月曜日説教


2017年4月10日、関口教会

[聖書朗読箇所]

昨日、わたしたちは主の受難の主日を記念しました。

今日は、受難の月曜日です。本日の福音朗読、ヨハネの12章は、過越祭の6日前に、ベタニアで起こった出来事を伝えています。それは、イエスがよみがえらせたラザロの姉妹のマリアが、非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪で足を拭ったという出来事です。女性がイエスに香油を注ぎ塗るというような話は、他の福音書、マタイ、マルコ、ルカも伝えています。

この出来事を見ていた、弟子のイスカリオテのユダは言いました。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12・5)
1デナリは当時、人が働いて得る賃金、日当にあたる金額でした。ですから、300デナリと言えばほぼ1年分の収入にあたる、かなり高い金額になります。このユダの言葉には、「なるほど」と思わないわけではありません。しかし、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)とヨハネ福音書は語ります。
ユダは、イエスから信頼されて財布を預かり、お金の出し入れを任されていました。300デナリが欲しかったのかもしれません。このときイエスは、彼女をかばって言いました。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネ12・7)

イエスの十字架のときが迫っていました。マリアはそのことを感じていたのでしょうか。マリアはイエスに香油を注ぎ、自分の持っている最も大切なものをイエスに献げて、イエスの葬りの準備をすることになったのです。
この場面からわたしは、彼女のひたすらなる清い思いを感じます。なりふり構わずに、イエスの足を髪で拭うというこの行為は、非常識と思われました。しかし、彼女は自分の行いが周りにはどう映るかということなど、全く気にはしていませんでした。

他方、ユダの態度はマリアとは対照的です。ヨハネ福音書は、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)と述べています。彼は、盗人、ごまかす人、うわべは貧しい人を思いやるように装っているが、心の中は強欲な人、とされています。

今日、聖週間の月曜日、復活祭へ向かって歩むわたしたちの心はどうでしょうか。わたしは、自分自身について言えば、ユダの心がわからないわけではない、ユダの心が自分にもあると感じます。マリアの清い心に惹かれながら、ユダの心との間で揺れているような自分を見ます。

乱れた心を神が浄めてくださいますよう、聖霊に祈ります。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 42:1-7
福音朗読 ヨハネによる福音書 12:1-11
(本文)
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

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