八王子教会堅信式説教・年間第三主日


2017年1月22日 八王子教会

[聖書朗読箇所]

説教

八王子教会のみなさん、高幡教会のみなさん、今日は年間第三主日です。今から、堅信式が行われます。
いま、読まれました、マタイの福音書では、使徒の召命が告げられています。主イエス漁師であったペトロと、その兄弟アンデレを、イエスはお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。ペトロとアンデレは、すぐにイエスに従って、イエスの弟子となり、十二使徒に任命されました。
ペトロは十二使徒の頭とされ、後に、ローマで殉教し、最初のローマの司教、そして、わたくしたち、ローマ・カトリック教会の頭となった方です。わたしたちはローマの教会の成立をこのように理解しています。

さて、第二朗読はコリントの教会への手紙でした。コリントの教会は、異邦人の使徒と呼ばれる、パウロが設立した教会であると考えられます。
既に、パウロの時代から、コリントの教会には、いろいろな問題があったことが推察されます。その問題の中で、仲間争い、分派という、困ったことが起こっていたことが、今日の手紙で告げられています。
教会は、同じイエス・キリストを信じる神の民ですが、派閥と言いましょうか、いくつかのグループができて、そのことは悪いことではありませんが、お互いに攻撃したり、排斥したりするということが起こりましたし、いまもある程度、そのようなことが起こっています。

ただいま、わたしたちは「キリスト教一致祈祷週間」を過ごしています。
教会の設立には、使徒ペトロ、使徒パウロたちが創立に大きな役割を果たした。ただ残念なことに、歴史の発展の中で、キリストの教会は、いくつかの教会、教派、教団に、分裂してしまっています。
しかし、そんな中で、イエス・キリストにおいて、一つになろうという運動が、教会一致運動です。

今年は、特に、ルーテルによって始められた宗教改革から、ちょうど、500年の年に当たります。1517年に、ドイツで、ルーテルと言う人が、宗教改革を開始しました。
500年の間、両方の教会は、対立を続けてきましたが、50年程前に開かれた、第二ヴァチカン公会議から、対話する方向に転じました。そして、よく話を聞いてみると、「両方の教えの間に、そんなに大きな違いはない」と言うことがわかってきました。
むしろ、基本的な理解は同じです。ただ、強調点が違うに過ぎない。冷静に聞いてみると、相手の言うことがわからないわけではない。このようになってきました。

そこで、今年は、いろいろな所で、宗教改革500周年を記念する行事があり、更なる対話と一致に向けて、前進するようにと、わたしたちは願っております。
同じ、イエス・キリストを礎として始められた教会ですが、理解の仕方は、少しずつ違います。イエスがおっしゃったことについて、どのように受け取るかと言うことは、少しずつ、場合によっては大きく違うことがあります。その違いを尊重することが、大切ではないでしょうか。

同様に、人と人との間にも、理解と一致と言うことが求められております。わたしたちは、他の人のことを、わかっているつもりかもしれないが、誤解しているかもしれない。現に、わたしたちは、「自分のことをわかってもらえていない」と感じることがあります。
しかし、自分のことが誤解されていると思うのならば、自分も他の人のことを誤解しているかもしれないと、思うべきではないでしょうか。

話は変わりますが、今日、堅信を受けられるみなさん、昨年は、「いつくしみの特別聖年」という年でした。「主イエス・キリストは、いつくしみ深い方です。ですから、キリストの弟子であるあなた方は、いつくしみ深い者でありなさい」。そのような教えを聞きました。
そして、教皇様は、「いつくしみ深くある」ということは、例えば、次のようなことを行うように努力してくださいと、わたしたちに伝えてくださいました。
その、いつくしみの御業は、「体を使う良い行い」と「心を使う良い行い」の、大きく二つに分かれます。
もっとも、人間は、体と心がひとつになっておりますので、結局は同じことになると思いますが。

さて、体を使って行うように勧められている、昔から言われている良い業というのは、
「飢えている人がいたら、食べ物をあげてください。」
「渇いている人がいたら、飲み物をあげましょう。」
「着るものが無い人には、着る物を与えましょう。」
「泊る所が無い人には、宿を用意しましょう。」
「病気の人がいたら、お見舞いに行きましょう。」
「牢につながれている人がいたら、訪ねる。」
「死者を埋葬する。」

この「死者を埋葬する」とは、ある時代、ある場所では、至る所に死体が放置されていたのでしょうか。日本では、そのようなことはあり得ませんが、日本以外の世界では、いま、いろいろな所で、そのようなことがあるのだろうと思います。

次に、精神的な良い行いとは、どのようなことかと言いますと、
「疑いを持っている人に助言する。」
「無知な人を教える。」
「間違いを犯している人を戒める。」
「悲しみに沈んでいる人を慰める。」
「いろいろな侮辱をゆるす。」
「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶ。」

最後の、「煩わしい人」のことですが、わたしたちは、時として、何度も何度も、うるさく、繰り返し、聞きたくないことを、聞かされたり、頼まれたりすることがあるのではないでしょうか。そして、最後には我慢ができないことがあるかもしれない。
「そのような人たちのことを、温かく、忍耐を持って受け入れましょう」と、人に言うのは簡単ですが、実行するのは簡単ではありません。人間というものは、自分のことを大事にし、人のことは後回しにすると言う、抜難い性質を持っています。

イエス・キリストの教えは、「自分を後にしなさい」と言う教えです。それは、なかなかできない。しかし、人にはできないけれども、神にはできないことはない、と言われました。

堅信を受けられるみなさん、聖霊の賜物をお受けになります。七つの聖霊の賜物、それは、「自分から出て、人のために尽くすことができるようにする賜物」であります。
別な言い方をするならば、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」を与える秘跡であります。

どうか、毎日、寝る前に一日を振り返り、反省し、明日、更に、聖霊の賜物を生きることができますよう、お祈りをしてください。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書  8:23b-9:3
第二朗読  一コリント 1:10-13、17
福音朗読  マタイ   4:12-23

(福音本文)

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 

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