待降節第二主日・黙想会

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    2016年12月4日 小岩教会にて

     

    先ほどの説教の中では、『いつくしみの特別聖年』は終了したが、神のいつくしみは絶えることなく、いつもわたしたちに注がれており、わたしたちは、日々、神のいつくしみを実行するように召されている」と言うことを申し上げたかったのでありますが、フランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」を迎えるときに、大勅書を発表して、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」と言う文書を、わたしたちにくださいました。それを読みながら、わたしたちはこの一年間を過ごしてきたと思います。

    それを、もう一度、読んでみますと、そこに、「いつくしみの行い」、「慈善のわざ」と言うことが出ております。
    「わたしたちが人に対していつくしみ深い」と言うことは、どのようにすることか。あるいは、逆に、どのようなことをしないことか、と言うことであります。

    ミサの開祭のときに、わたしたちは毎回、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。」と告白の祈りをしますが、この「怠り」と言うことを「いつくしみの特別聖年」の間、特に反省するようにと、大勅書の中で言われております。
    そして、古典的な教えなのですが、七つの良い行い、「体を使って行う良い行い」、「身体的な慈善のわざ」と言うことが述べられていて、更に、「精神的な慈善のわざ」が、やはり七つ挙げられています。
    両方七つずつ、人間は体と心が一つでありますので、これは体の行い、これは心の行いと言うように、はっきりと分けることはできないでしょうが、「体を使って、心で行う良い行い」と、もっぱら、「心を使って、霊的に行う良い行い」と言うものを分けて、七つずつ挙げております。

    どのようなものであるかと言うことを、もう一度思い起こしますと、
    「身体的な慈善のわざ」、
    「飢えている人に食べさせること」、
    「渇いている人に飲み物を与えること」、
    「着るものを持たない人に衣服を与えること」、
    「宿のない人に宿を提供すること」、
    「病者を訪問すること」。
    この辺りまでは、わたしたちが言われなくても、通常行っている、行うことが、それほど特別だとは思わない、良い行いだと思います。

    「受刑者を訪問すること」。
    これは、あまり機会がないかもしれません。「牢にたずねる」と言う箇所が、マタイ福音書の25章に出ております。教誨師(きょうかいし)と言う仕事があって、司祭で教誨師をしている人がいます。

    「死者を埋葬すること」。
    これは、今はほとんどありませんが、昔はきっと、そのような必要がたくさんあったのでしょう。戦乱に次ぐ戦乱の時代、死体があちらこちらに放棄されていると言うような状況が珍しくなかったときに、葬儀屋さんに頼んで埋葬すると言うことではなかったのでしょう。
    日本では、幸い、わたしたちが直接、死体を埋葬すると言うことはありませんが、世界中では、あちらこちらで、そのようなことがあるのだろうと思います。
    シリアからの難民の受け入れをどのようにするかと言うことが、問題になっております。中近東、アフリカ大陸で、たくさんの人が命を落とし、その死体が埋葬されないと言う状況が、あるのでしょうか。
    これが、七つの「身体的な慈善のわざ」です。

    次に、「精神的な慈善のわざ」ですが、これは、しみじみと黙想したい課題であります。なかなか難しいことではあると思います。どのようなことかと申しますと、

    「疑いを抱いている人に助言すること」。
    人間は疑いを持つものでしょうか。いろいろな場合があるのでしょうけれども、疑いを持っている人に助言すること。

    「無知な人を教えること」。
    人間は無知なものです。どんなに立派な人でも、無知な部分を持っている。無明(むみょう)、明かりがない。人の欠点は良く分かって、自分のことは良く分からない。イエズス様も指摘しています。
    われわれは、人の問題には敏感です。自分のことは棚に上げて、人のことにはすぐに気付きます。人の悪口と言うものは楽しいもので、悪口に花が咲きますが、誰でも、自分の悪口は言われたくないわけです。教皇様は大勅書の中で、誹謗中傷することの害と言うことを言っておられます。
    無知な人を教える。無知だと本人は思っていないのですから、これは難しいですね。

    もっとも、単純な事実を教えることは簡単です。「小岩教会に行くには、どのように行けば良いでしょうか」。これは、あまり難しくはありませんが、人生のいろいろなことを教えると言うことは、なかなか難しいことであると思います。
    自分が信じ、実行していることでないと、人に教えても、あまり効果がない。親が子どもに教えても、親が実行していないと、子どもには響かない。

    大体、教えると言うことは難しいと、わたくしは思いますが、みなさんは、そのようにお思いになるでしょうか。

    「罪人を戒める」。
    これは、更に難しいかもしれません。罪人が、自分は罪人だと思っているときには、より易しい。大体、罪人は、自分が罪人だと思わないことの方が多いわけですから、その人を戒めると言うのは、難しいことであると思います。

    「悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること」。
    これは、わたしたちが、普通にしていることであると思います。悲しんでいる人、落ち込んでいる人を慰める。慰めようがないと言うことも感じますが、寄り添い、話があれば話を聞く。途中で意見しないで、最後まで聞く。「あなたがそんなことだから、そのような目に合うのだ」と言うようなことは言わないで、最後まで聞く。

    「諸々の侮辱を許すこと」。
    これも、難しいと思います。ロザリオの祈りや十字架の道行で、「主イエスが受けた侮辱を思い、侮辱に耐え忍ぶ恵みを祈り求めましょう」と祈りますが、言葉で言っているときは易しいのですが、現実に侮辱されると、なかなか難しいものがあります。
    侮辱と言うほどのことではないにしても、軽んじる、あるいは、馬鹿にする、自分を重んじていないと感じるときに、どのようにするかと言うことが、ありはしないか。親が、「親に向かって、その態度は何だ」と言う気持ちや、司祭、司教が思っているかもしれないが、「俺は何々だぞ」と言う気持ち、言わないけれども、そのような気持ちが湧いてくるのではないかと思います。

    次に、「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと」。
    これが、どのようなことかと言うことは、わかりますね。しかし、これが、七つの「精神的な慈善のわざ」、スピリチュアルな良い行いの一つに数えられていると言うことは、「いつくしみの特別聖年」のときに知りました。わざわざ七つの中の一つに挙げられていると言うことは、特別な意味があるのだと思います。そして、これも、難しいと思います。
    いかかでしょうか。みなさん、折角の黙想会ですから、振り返ってみていただけるとありがたいと思います。
    同じことを、何度も何度もくどくどと言う。いつ尽きるかわからない。また同じことを言って愚痴る。あるいは、何をしても満足してもらえない。そうした体験は、誰しもあるのではないかと思います。

    される方については、わかりやすい。している方は、自分がそのようにしていると言うようには思わないかもしれません。自分がそのようなつもりではなくても、相手がどのように思っているかはわかりません。人が、どのような思いで生きているかと言うことはわからないと、わたくしは思います。その辺について、みなさんの体験はいかがでしょうか。

    最後、七番目、「生者と死者のために神に祈ること」。
    祈ることは、誰でも、いつでもできることですが、どれくらい実行できているでしょうか。
    十二月になりまして、もう待降節ですが、十一月は死者の月で、特に、死者のために祈るときでありました。亡くなった人は、日々記憶から薄れていきますが、教会は死者のために祈ること、ミサを献げることを勧めております。ご存知のように、ミサの中では、必ず、死者のために祈ります。
    他の宗教では、いかかでしょうか。仏教は、亡くなった方のことを大切にする、供養する、お経を上げると言うことがありますが、他のキリスト教の宗派のことは良くわかりません。カトリック、あるいは、東方教会は、「死者のために祈る」と言う、良い習慣、伝統を保持しております。

    それから、「生者のために祈る」。
    これも、多分、わたしたちが毎日実行していることであると思います。特に、困難な状況にある人、病気の方の快復を願って祈る。朝、晩、あるいは、寝るときに、短い時間であっても、亡くなった人、苦しんでいる人、お世話になっている人のために祈ることは、素晴らしいことではないかと思います。

    「いつくしみの特別聖年」が終わって、この一年間、自分はどのように「いつくしみを実行したか」、あるいは、「いつくしみに反することをしなかったか」と言うことを、究明する、反省して、悔い改めをすることをお勧めします。

    さて、わたしたちが信じている神様は、どのような方であるのかと言うことを、今日も深く思い、考えたいと思います。
    わたしたちは、イエス・キリストを、救い主として、神から来られた、神からの神、光の源である天の御父から来た、光からの光であると信じております。
    「いつくしみの特別聖年」で、繰り返し言われたことですが、イエス・キリストは神のいつくしみのみ顔、目に見える顔です。神は霊ですから、目に見えません。しかし、ナザレのイエスと言う人は、わたしたちと同じ人間でした。罪と言うことを除いて、すべてにおいて、わたしたち人間と同じ存在になられました。人間らしいイエスの姿が、福音書で述べられています。

    先程の説教でも述べましたが、恐らく、「毎日楽しく過ごす」と言う面もあったのではないでしょうか。良く食べ、良く飲んだ人なのかもしれない。弟子たちの集団は、毎日、どのように暮らしていたのか。食事や寝る所は、どのようにしていたのか。旅から旅への毎日で、その日その日で、どのような所で休んでいたのか。寝られる所で寝て、食事はどのようにしていたのか。

    想像するしかありませんが、砂漠で、非常に厳しい生活をし、蜜といなごしか食べなかったと言うヨハネとは違い、人間的な生活をしていたことは事実であると思われるわけです。そして、毎日、人間としての生活をし、弟子たちに神様についてお話になった。
    その神様は父であり、父をアッバと呼んでいたそうです。アッバと言うのは、「おとうさん」と呼びかける、親しみと信頼を込めた、呼び方です。
    でも、見えませんので、たまり兼ねたのでしょうか、フィリッポと言う弟子が、イエスにお願いしました。「どうか、わたしに父を示してください。見せてください」と言われました。
    そして、イエスは答えた。「わたしを見た者は、父を見たのだ。こんなに長い間一緒にいるのに、なぜ、そのようなことを言うのか」。

    さて、このイエスが教えられた神は、旧約聖書で自らを現された神であります。アブラハムに現れた神です。イサク、ヤコブに現れた神です。そして、モーセに現れた神です。みな、同じ神です。
    そして、イスラエルの民が、エジプトで奴隷とされ、苦しみあえいでいたときに、その叫び声を聞いて、モーセを派遣し、イスラエルの民をエジプトから脱出させて、カナの地に定住させたと言う歴史が、出エジプト記などに述べられています。
    「モーセ五書」といって、最初の五つは、非常に大切な書物、「神の啓示の書」とされているわけです。
    更に、イスラエルには、預言者と言う人がいて、神の言葉を伝える役を担いました。

    旧約聖書と言うのは膨大なもので、とても、一人で楽しく読むと言うわけにはいきませんが、一緒に通読する機会があれば良いと思います。
    聖書100週間と言う、上野教会にいた、マルセル・ルドルフ神父様が作り出した、聖書通読の方法ですけれども、聖書を、新約聖書だけではなく、旧約聖書も大切にし、旧約聖書を通読するように進められるわけです。

    旧約の民に現れた神は、戒めを授けた神です。「このようなことをしてはいけない。このようにしなさい」と命令され、「それを守り、行います」と、旧約の民は約束した。
    約束しましたが、結果的に、彼らは、その約束を守ることができなかった。それだけではなく、他の神々を神として礼拝し、他の神に従うと言う裏切り、背信行為に陥ったわけであります。それで、イスラエルの神は、激しく怒り、憤り、怒りを発する神として描かれています。

    神様は目に見えませんし、神様のことがわかるならば、わたしたちが神になるしかありませんが、神と言うのは、人間を高く超えたものでありますので、神様のことは良くはわからないわけです。神はご自分を、いろいろな方法で、いろいろな人を通し、いろいろな機会に現される。それが、「啓示」と言うことなのですが、「激しく怒る神」、このことについては、わかりにくいと感ずる点があるかもしれません。
    エゼキエル預言者などが言っていることは、「背信のイスラエル」です。結婚生活でいえば、「姦通すること」。姦淫の罪を犯すイスラエルに対する、神の激しい怒りがつづられております。

    他方、神が怒るのですけれども、イスラエルを憐れむと言うことですね。イスラエルの罪を赦そうとする。いつくしもうとする神の姿も、旧約聖書の中で描かれているわけです。ですから、そのような神、つまり、「怒り、憤る神」と「いつくしみ、憐れむ神」、同じ神が、言わば、対立するかのごとく葛藤する神として描かれていると言うことを、わたくしは、特に強く感じます。

    ギリシャ人の考える神と言うのは、観念的な神です。人間は、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりしますが、神ですから、そのような人間的な感情に捕らわれないはずだと思うわけです。
    神は完全な人ですから、足りないところはありません。足りないから求めるのであれば、それは神ではありません。動くことがない、変わることもない。不動・不変と言いましょうか。怒ることなく、悲しむことなく、憐れむこともない。神が心と言うものを持っていて、心の中で葛藤すると言うようなことは、ギリシャ人の神の考え方にはないと思います。

    ところが、イエス・キリストが福音を述べ伝える。イエス・キリストの福音は、旧約聖書の歴史、2000年くらいなのでしょうか、ダビデが紀元前1000年頃の人と言われていますから、更にその前に1000年も、2000年も歴史があるのですけれども、人類の長い歴史の中、宇宙の歴史の中では、本の一瞬でしかない、短い期間です。

    ともかく、イエス・キリストの前の時代、ヘブライ人が理解した神が、イエス・キリストによって、更に、高められたといいましょうか、深められたと言いましょうか、今日のミサの説教で言いたかったことは、らくだの毛衣を着て、野蜜といなごを食べている、洗礼者ヨハネと言う人と、弟子たちと、ときには楽しく、食べたり、飲んだりしているイエスの姿と、対照的です。
    これは、今のところ、わたくし個人の感想ですが、旧約と新約の違いを表す象徴的な姿なのかもしれません。

    つまり、神様と言うのは、わたしたちにはわかりませんので、人はそれぞれ勝手に思うのですが、預言者の中に、神様はこのように思っていると言う人がいて、段々、それが広まっていきます。その体験の出発は、「バビロン捕囚」と言う、非常に厳しい体験で、イスラエルの国は、北のイスラエル、南のユダと言うふうに分かれてしまって、まず、イスラエルが滅ぼされ、ユダも滅ぼされてしまって、ユダの国の王をはじめとする主導者は、バビロンに連れて行かれて、そこで、捕囚の生活をする。そのような深刻な体験の中で、彼らの宗教体験が深められて、旧約聖書の原型が、そのときに作られたと言われています。
    旧約聖書の書物は、ずっと後からできた巻物で、その中で神様とはどのような方かと言うことについての理解が深まってきました。

    そのような流れの中で、例えば、ホセアと言う預言者がいます。次のような言葉が残されております。これは、みなさんも何度もお読みになり、お聞きになっている、有名な箇所であります。

    ああ、エフライムよ
    お前を見捨てることができようか。
    イスラエルよ
    お前を引き渡すことができようか。
    アドマのようにお前を見捨て
    ツェボイムのようにすることができようか。
    わたしは激しく心を動かされ
    憐れみに胸を焼かれる。
    わたしは、もはや怒りに燃えることなく
    エフライムを再び滅ぼすことはしない。
    わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。
    怒りをもって臨みはしない。(ホセア11・8-9)

    「神であって、人間ではないから、怒りに任せて、イスラエルを捨てて、滅ぼし尽くすと言うことをしない」と、あたかも、自分をなだめているようです。人間ならば、そうかもしれないが、神だから、そのようにはしないと、自分に言い聞かせているような表現です。
    われわれ人間でも、このようなことはないでしょうか。腹が立って仕様がないけれども、腹立ち紛れに、そのようにはしない。
    腹立ち紛れに行動することに、わたしたちはブレーキを掛けます。動機にはいろいろとあるでしょうけれども、その人々をいつくしみ深く思うから、滅ぼすことはしない。滅ぼすことはできない。その人たちの現状を良いと思うわけではない。むしろ、非常に良くないと思う。しかし、だからと言って、その存在をすべて抹消すると言うことはしない。

    考えてみると、人間と言うものは、みな不完全なものであります。イエスが洗礼を受けられたときに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であると言う声がした。しかし、マリア様は別として、そのような人はいません。わたしたちは、完全に神様のみ心に適ったことを行い、あるいは、み心に適わないことは行っていないと言うものではありません。神様のみ心と言うものは良くわからないわけで、わかったから実行できるかと言うと、わかっても実行することはできません。

    人間の心は複雑で、あのようにも、このようにも思う。思っただけで駄目だと言われたら、天使が悪魔にされたように、悪い思いを持っただけで罪だとしたら、だれも神の前で清くあることはできません。
    ただ、思っただけでは断罪されるというわけではありません。むしろ、思いにどのように向き合ったかによって、わたしたちの責任は問われるわけで、いろいろな思いが湧いてくると言うことは、人間がこの世にいる限り、避けることはできませんし、そのこと自体を、神のみ心に背く罪であると言うようにはならないのであります。
    思うことだけで罪であるとしたら、みな、駄目です。人間は、思わないわけにはいきません。そのような思いが全然ない人も、たまにはいるかもしれませんが、この世にある限り、それは避けられません。

    神は、「憐れみに胸を焼かれる。」そして、「葛藤する。」。そのような神であると言うことを、預言者が言います。エレミヤと言う人は、そのような神であると言うことを、詳しく述べています。

    更に、イエス・キリストが登場する直前、紀元前1世紀。旧約聖書の中に、「第二正典」とも呼ばれる部分があって、他のキリスト教では、聖書に数えていない、巻物があります。「マカバイ記」、「集会の書」、「知恵の書」などがあります。「知恵の書」は、昨年(C年)の年間第31主日の第一朗読にも出てきました。通常、第一朗読は、旧約聖書からとられます。

    その「知恵の書」は、紀元前1世紀の間に、エジプトのアレキサンドリアで成立したもので、そこに、ユダヤ人が多数移住していたとのことです。ユダヤ人の言葉はヘブライ語(後に、アラマイ語とも言いました)でしたが、「知恵の書」は、最初からギリシャ語で書かれたと言う説もあります。

    「知恵の書」では、次のような教えが述べられています。

    全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
    回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
    あなたは存在するものすべてを愛し、
    お造りになったものを何一つ嫌われない。
    憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
    あなたがお望みにならないのに存続し、
    あなたが呼び出されないのに存在するものが
    果たしてあるだろうか。
    命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
    あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵の書11・11・23-25)

    教皇様が、「いつくしみの特別聖年」の大勅書にも引用されている箇所であります。
    この世に存在するものはすべて、神のみ心により、神がお造りになった。創世記は、それを述べています。そして、特に、人間は、神の似姿、神に似せて造られた、神の作品。

    しかし、その人間が、いろいろな問題を引き起こしています。地上に存在する、いろいろなもの、戦争をはじめ、大量殺りく、環境破壊、飢餓、貧困などは、多くの場合、人間が引き起こしているものです。それを思うと、人間が、自己嫌悪に陥ってしまうのも無理はありません。
    ごミサのときに少しお話しましたが、自分の存在に対する絶望的な気持ち。このような自分がこの世にあることに、どのような意味があるのだろうかと、自暴自棄になる。それが、「セルフ・ネグレクト」と言うことになるのだと思います。

    人間の大切な課題は、自分が何のために存在して、どのような意味があるのか、どのような価値があるのかと言うことですので、価値があることに疑問を持たない人は、わざわざ問いかけることはしません。
    つまり、人は、両親から、家族から、周囲から、大切な存在として、認められ、育てられていれば、わざわざ自分は何のために存在しているのかなどと考えずに済みますが、残念なことに、多くの場合、「なぜ自分は、このような目に合わなければならないのか。」などと思うような体験がある人の方が、はるかに多い。
    そのような中で、神様がいる、その神様が、どのような人も、嫌われないどころか、いつくしんでくださる。そのような信仰です。しかし、それでも、なかなか受け入れがたいかもしれない。

    イエス・キリストの十字架と言う出来事は、「神のいつくしみのわざ」の頂点です。
    わたしたちが、頭でわかっていてもできないのは、「罪を憎んで人を憎まず」といいますか、悪いことは悪いわけで、悪いことを良いとすることはできないわけですが、間違いを犯す人を大切に思い、いつくしみ深く思い、その人を退けないどころか、その人のために良いことをする、その人からひどい目にあっても、仕返ししない。苦しみ、極端な場合、殺されても構わない。

    そんなことは冗談じゃないと言うのが、わたしたち、普通の人間の気持ちであると思いますが、イエス・キリストの十字架と言う出来事は、自分を迫害する者のために祈りなさい。挨拶してくれる人に挨拶したところで、どのような手柄になるのでしょうか。それは、誰にでもできることです。
    「自分に敵対する人のために祈り、その人のためになることをしなさい。」と言う、この教えは、なかなか実行が困難であると感じると思います。
    罪ある人、あるいは、足りないところのある人を受け入れる、あるいは、愛すると言うことは、その人の棘を受けると言うことであり、棘と言うのは人を刺して、人に痛みを覚えさせるわけです。

    「いつくしみの特別聖年」ですが、いつくしみのわざを行いなさいと言うことは、楽しくて、何の苦しみもなければ易しいのですが、必ずしもそうではありません。痛みを覚えると言うことであります。
    それを、どのようにしたら良いかと言うことですが、聖書をそのような目で見てみると、神は、痛くも痒くもなく、平然と人を愛しているのではなく、神は苦しいのだと言うことです。これは、あまり普段思うことはありません。

    わたくしが、学生時代に大変お世話になった神父様方の中に、粕谷甲一神父様とおっしゃる方がいらっしゃいまして、神父様の残されたお話を文字化して、本にして、女子パウロ会から次々に出版しています。最近見た本は、「神よ あなたも苦しまれるか」。変わった題名ですが、神は苦しまないから神だと言う考えはやめなければなりません。苦しむから神だと言うように、逆に考えるべきなのです。
    「苦しみ」、あるいは、「悲しみ」と言う言葉に、神は属さないと言う考えは置いておいて、神であると言うことと、苦しむこと、痛みを覚えること、悲しむことは一致する、むしろ、そのようにするからこそ、神様なのだと言うことになります。

    それが証拠に、聖人と言う人はそのような人でした。人間の問題が何もわからない、感じなくて、平気なのだと言うわけではありません。人間が生きる上で、つぶさに味わう様々な、悩み、苦しみ、悲しみを知っているわけです。
    人となった神であるイエス・キリストは、人間として、善く、それを体験された。ですから、わたしたちの苦しみを、ご存知であります。

    「いつくしみの特別聖年」のときに使われた言葉の中に、「深く同情する」と訳される箇所がありますが、人間の体、内臓から来た言葉であるそうで、「スプランクニゾマイ」と言うギリシャ語があります。人の苦しみを見ると、体が痛む。「断腸の思い」と言う言葉がありますが、自分のこととして、深い悲しみ、強い痛みを覚えるという意味であるそうです。
    わたしたちの信じる神と言うのは、いつくしみ深い神であると言うことで、それは、全く鈍感で、痛みということには、何の共感もないと言うことではありません。
    お話したいこととして、後半に、同じ分量、それ以上の内容がありますが、時間がありませんので、短く要点だけを申し上げたいと思います。

    わたしたちは、誰であれ、神の民全員が、そのような神のいつくしみを人々に表し、伝えると言う使命を受けています。それを、「福音宣教」、あるいは、「福音化」と、別の言葉で言うこともできます。
    そして、それは、司教、司祭、奉献生活者の人々が、その召命として行うことなのですが、洗礼を受けたすべてのみなさんは、神のいつくしみを生き、伝えると言う務めを受けているのであります。小教区でも、いろいろと役割分担しながら、実行していただいていると思います。
    司祭が一人で何もかもはできませんし、信仰講座、入門講座等は、神父様や、シスターがしていらっしゃいますが、みなさんも準備をして、それを行うようにしていただきたい。そのようなことを進める、準備をする方のための準備講座を、開始したいと思っています。そして、入門講座の担当者、協力者を養成するための講座を、開設したいと思っています。

    それから、教会に来られる方を、温かく親切に迎えなければなりません。それは、既に、みなさんがしていることなのですが、教会には、いろいろな動機、いろいろな理由で来られます。必ずしも、信者になりたいと思っているわけではありません。
    今の時代、精神的な傷を持った人も、少なくはありません。そのような人に、どのように接したら良いか。これは、東京教区の優先課題の一つにもなっています。「心の傷を持った人への対応」です。このことについて、わたしたちは準備をする必要がありますので、担当するチームを、改めて編成することにいたしました。

    それから、日本の社会で、「イエス・キリストの教え」と言うものを、どのように伝えていったら良いだろうか。
    どのような点が人々にとって、受け入れがたい内容なのか。どのような点が大きな疑問なのか。そのようなことについて、わたしたちの方で研修しなければならないと考えております。そのためのチームが、既にありますが、拡充し、強化したい。
    教皇庁の言い方で、あまり良い表現ではないかもしれませんが、「新福音化委員会」と言うものを、拡充したいと思っています。

    小岩教会のみなさん、この三つのグループ、入門講座の担当者、教会の訪問者への対応、新福音化委員会、ご協力、ご加入していただければと思います。
    よろしければ、お知らせいただいて、具体的な案内を差し上げたいと思っております。