東京教区修道女連盟・新年研修会ミサ説教


2017年1月7日 降誕節土曜日(主の公現前)麹町教会にて 

[聖書朗読箇所]

説教

2017年を迎え、今年も、みなさまは、新年の研修会を開いておられます。  
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と、いま読まれました福音が、告げております。カナの婚宴の話でございます。新春にふさわしい、明るい、希望に満ちた、福音ではないかと感じております。  

2016年は、主に、「神のいつくしみの特別聖年」でございました。フランシスコ教皇様のご意向に従って、わたくしどもは、神のいつくしみを、より深く学び、悟り、そして、人々に神のいつくしみをあらわし、伝えるようにと、祈り、務めてまいりました。  
「神のいつくしみの特別聖年」は終了いたしましたが、教皇様のご意向に従って「神のいつくしみを生きる」ということに、終わりはございません。  
2017年、引き続き、神のいつくしみをより深く生きられますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。  

今日の第一朗読が告げているように、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださいます。」(ヨハネ一5・14)  
神の御心に適うこと、それは、疑いもなく、天の御父がいつくしみ深いように、わたくしたちも、いつくしみ深い者であり、そして、いつくしみを実行する者であるということであると思います。  
問題は、わたしたちが、どれだけ深く、神のいつくしみを悟り、それを実行できるのか。日々の生活の中で、自分の召命の実践の中で、どのように、神のいつくしみを生きるということであるのか。司祭や司教はもちろん、奉献生活者や信徒も含む、すべての信者は、この課題を日々、背負って、歩んでいかなければならないのであります。  

今日の第一朗読、使徒ヨハネの手紙の中に、「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(ヨハネ一5・19)という言葉がございました。  
日々、感じることでありますが、神がお造りになったこの世界、イエス・キリストの御血によって贖われた、この世界であるにもかかわらず、依然として、悪の力が働いているということも事実であります。悪の存在する世界の中で、わたしたちは戦いながら、戦いのうちに、神のいつくしみを、より深く知り、行うようにすることが、切に求められているのであります。  
悪の支配、それは、それがこの世にあるということだけではなく、わたくしどもの心の中にもある、心の中にも悪の力が働いているということであると思います。わたしたちは、日々、悪の力に抗して、悪の力を退け、誘惑に陥らないようにと、神の助けを願いながら、それぞれ、自分の使命を忠実に果たしていきたいと思います。  
さて、東京教区の現実は、司教として考えますに、非常に厳しい現実であると思います。わたしたちは、信者全員が、心を一つにし、力を合わせ、連帯して、それぞれ、主イエス・キリストからいただいている、使命、役割を遂行していきたいと思います。  
わたしたちは、神のいつくしみに触れ、イエス・キリストの弟子となりました。この体験を、信仰の喜びを、日々の生活で証し、多くの人に伝えていかなければなりません。  
既に、何度もお願いしていることではありますが、神の民全員が、自分の信仰を、自分の言葉で宣言し、自分の言葉で説明できるような、準備をしなければならないと思います。  

そして、具体的には、各小教区、修道院等で行っております、信仰講座を、信徒の方にも協力していただき、あるいは、担当していただく準備をしなければならないと思います。  
はっきりと、「入信、あるいは、洗礼を望むから、教えてください」という意思表示をしているわけではないが、何かのよりどころを求めて、教会に来る方が多数いらっしゃいます。そのような方を、優しく、親切に受け入れるような態勢をもっと整えていかなければならないと考えております。  

更に、400年、500年の宣教の歴史を持つ、日本でありますが、宣教は、なかなか難しい。どうして、日本における福音化が進展しないのか。その原因、理由は、どこにあるのか。キリスト教の宣教の仕方、プレゼンテーションの方に問題がありはしないか。あるいは、人々の現実を良く見て、そのニーズに応えるように、わたしたちが働いていないからではないかなど、わたしたち自身の反省を行う必要があると考えております。  

今日は、ユスト高山右近の列福についてのお話を伺うことになっております。信徒として、偉大な信仰の証を立てた、高山右近。その生涯に学びながら、わたしたちは、この現代の日本において、人々のために、どのような証をすることができるのか。どのような証をしなければならないのかということを、この機会に、与えられた、この素晴らしいときに、しみじみと考え、祈り求めたいと思うのであります。  

結局、人々は、わたしたちが、何を言っているかということよりも、どのように生きているかということを見ているのであります。  
わたしたちの言葉に、実行が伴わないならば、わたしたちの存在、わたしたちの宣教は、あまり効果をもたらさないのではないでしょうか。  
願わくは、聖霊の力に満たされ、わたしたちが強く、信仰の証を立てることができますよう、そのために、ユスト 高山右近の生涯に、学ぶことができますよう、今日のときを、神様にお献げし、新年の素晴らしい学びのときを過ごしたいと願っております。どうぞ、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 第一朗読  一 ヨハネの手紙 5・14-21
福音朗読 ヨハネによる福音書 2・1-11

(福音本文)

第一朗読  一 ヨハネの手紙 5・14-21  
〔愛する皆さん、〕何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。  
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。  
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。  
わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。  
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。  
この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

福音朗読  ヨハネによる福音書 2・1-11  
〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。  
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。  
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。  
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。  
このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」  
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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